怒りについて

 読者への怒り

次の文章は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から。主人公・多崎つくるが夢を見ている。

 その音楽を無心に演奏しながら、彼の身体は夏の午後の雷光のような霊感に、鋭く刺し貫かれた。大柄なヴィルテュオーゾ的構造を持ちながらも、見事に美しく内省的な音楽だった。それは人が生きるという行為の有り様をどこまでも率直に、繊細に立体的に表現していた。それは音楽を通してしか表現することのできない種類の、世界の重要な様相だった。彼はそのような音楽を自らの手で演奏できることに誇りを感じた。激しい喜びが彼の背筋を震わせた。
 しかし残念ながら、彼の前にいる聴衆はそのようには考えていないらしかった。彼らはもじもじと身体を動かし、退屈し苛立っているように見えた。彼らの動かす椅子の音や、咳払いの音が彼の耳に届いた。なんということだろう、人々はこの音楽の価値をまったく理解していないのだ。
 彼は宮廷の大広間のような場所で演奏していた。床は滑らかな大理石でできていて、天井は高かった。中央に美しい明り取りの窓がついている。人々は優雅な椅子に座ってその音楽を聴いていた。人数は五十人ほどだろう。身なりの良い上品な人々だ。おそらく教養もあるのだろう。しかし彼らは残念ながら、この音楽の優れた本質を読み取る能力を持ち合わせていない。
 時間が経過するにつれ、人々の作り出す騒音はますます大きく、ますます耳障りなものになっていった。やがてそれは歯止めがきかなくなり、音楽の響きそのものを圧倒するほどになった。そしてとうとう彼自身の耳にさえ、自分の演奏している音楽がほとんど聞き取れないようになった。彼が耳にするのは、グロテスクなまでに増幅され誇張された騒音と咳払いと不満の呻きだけだ。それでも彼の目は楽譜を舐めるように読み取り、彼の指は鍵盤の上を憑かれたように激しく駆け巡り続けていた。
 そしてある瞬間彼ははっと気づいた。楽譜をめくる黒衣の女性の手に指が六本あることを。その六本目の指は小指とほとんど同じ大きさをしていた。彼は息を呑み、胸は激しく震えた。彼は自分の傍に立つ女の顔を見上げたかった。それはどんな女なのだろう? 彼が知っている女なのだろうか? しかしその楽章が終わるまでは、一瞬たりとも楽譜から目を離すことはできない。たとえその音楽を聴いている人間がもはや一人も存在しないとしてもだ。  

(村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)

私がこの箇所を読んで思い出したのは『ドン・キホーテ』の『後篇』の終盤に出てくる、悪魔たちがテニスをする場面である。この箇所はアルティシドーラという作中の娘が語ったものであり、文脈としてはこの娘はドン・キホーテを騙しているのだが、おそらくその事はあまり考慮する必要がなく、書いてあることをそのまま素直に受け取って良さそうだ。最初の文の「その入口」とは「地獄の入り口」を指す。

「実を言えば、わたくしはその入り口まで行ったんです。するとそこで、一ダースほどの悪魔たちがテニスをしておりました。悪魔たちはみな半ズボンに胴着という格好で、フランドルのレースをあしらった大きなカラーをつけ、袖口の折り返しも同じくレース飾りからなっていました。そして、腕を長く見せようとして手首のところを指幅四つ分ほどあらわにし、手には火のラケットを持っていたのです。でも、わたくしがなおさら驚いたのは、彼らがボールのかわりに、一見したところ、なかに空気と毛くずが詰め込まれているかのような書物を使っていたことです。また、これはたしかに珍しくも奇異なことでしたが、さらにこのことをも凌ぐ、実に驚嘆すべきことに気がつきました。つまりこの世ですと、テニスをすれば勝ったほうが喜び、敗けたほうが残念がるものなのに、あそこでは、勝者も敗者も、みんながぶつくさ愚痴をこぼし、どなりちらし、ののしりあっていたのです。」
「そいつは別に驚くにあたらねえ」と、サンチョがひきとった。「なぜかって言やあ、悪魔どもはテニスをしようとしまいと、勝とうが敗けようが、決して満足するってことがねえからだよ。」
「きっと、そうに違いありませんわ」と、アルティシドーラが応じた。「でも、ほかにもまだ驚くことが、いえ、あのとき驚いたことがあります。それは、一度打ったボールはすぐに砕けてしまって、もうそれ以上、なんの役にも立たなくなってしまうということです。ですから、新しい書物や古い書物が次から次へと現れるのが、それはそれは見ものでしたわ。そして、それらの中に、出版されたばかりの真新しい、立派な装幀の本があったのですが、それをポンと打ちますと、本の中身がとび出て、紙が散らばってしまいました。それを見て、一人の悪魔が仲間に向かって言いました――「おい、それはなんていう本だ?」すると相手が、こう答えました――「これは、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの続篇だが、この物語の最初の作者、シデ・ハメーテによって書かれたものではなく、自称トルデシーリャス生まれのアラゴン人の手になるものだよ。」「ああ、聞いただけで胸くそが悪い」と、先の悪魔が言いました、「そんなものは、さっさと地獄の底へ投げこんでくれ、二度と俺の目にふれないようにな。」「それほどひどい本なのか?」と、相手が聞き返しました。「ひどいのなんのって」と、最初の悪魔が答えました、「俺がわざわざこれよりひどい本を書こうとしたところで、とうていうまくはいかないような代物さね。」それからまた彼らはテニスを続け、ほかの本を次から次へと打ち続けましたが、わたくしは、ドン・キホーテというわたくしが熱愛している方の名前を耳にしたものですから、その幻のような光景をしっかりと脳裡に焼きつけておこうとしたのです。」
「それは幻に違いありませんぞ」と、ドン・キホーテが言った、「なんとなれば、この世にもうひとりのわしが存在するはずなどないからでござる。なるほど、その続編とやらは世に出まわって、人びとの手から手へと渡っておるのだが、誰の手にもとどまることがない、みんながそれを足蹴にしてしまうからじゃ。わしは、まるで亡霊のようなドン・キホーテが奈落の暗闇を、あるいはまた地上の明るみを徘徊していると聞かされたところで、いっこうに気にはしませんぞ。なにしろ、その続編に登場するドン・キホーテはわしではないのだから。もし、その物語が本当に立派であって、忠実に真実を伝えるものであれば、きっと幾世紀もの生命を保つであろうが、劣悪なものなら、その生誕から墓場までの道のりは、さして長くはなかろうて。」

(セルバンテス著 牛島信明訳『ドン・キホーテ 後篇』岩波文庫版 第三巻)

上記の二つの文章はニュアンスこそ違えど、ほとんど同じことを言っている。どちらも作者の主張を代弁しており、いかに自分の書いた小説が優れているか、そして世の読者がそのことを理解していないかを嘆いている。次の箇所はもっと明らかな主張だ。

 人生は複雑な楽譜のようだ、とつくるは思う。十六分音符と三十二分音符と、たくさんの奇妙な記号と、意味不明な書き込みとで満ちている。それを正しく読み取ることは至難の業だし、たとえ正しく読み取れたとしても、またそれを正しい音に置き換えられたとしても、そこに込められた意味が人々に正しく理解され、評価されるとは限らない。それが人を幸福にするとは限らない。人の営みはなぜそこまで入り組んだものでなくてはならないのだろう?

そしてその嘆きは、自分の身を灼くほどの凄まじい怒りでもあるのだ。ただしセルバンテスのそれには怨念のようなものが感じられるのに対し、村上春樹の方では怒りはそれほど暗いものになっていない。むしろそれは灰田の水泳のフォームのように静かなものだ。怒りはより良い作品を書くことによってしか鎮められないということが、示唆されているように思う。たとえ誰も理解してくれなくても、書き続けるほかはない。黒衣の女性の顔はまだ見えないが、それはきっと次に書くべき長編小説の予兆なのだろう。ここでの怒りは意欲というものにつながっている。

 知覚されない怒りとその発露

村上春樹は表に出ない怒りを書くことに長けた作家だ。

例えば『かえるくん、東京を救う』も怒りがテーマになっている。正しい形で有効に発揮されなかった怒りや不満は、耐えたつもりでも人の心の奥底に溜まっていく。主人公・片桐は自分の怒りを感じ取ることができない人間の典型である。それはあまりにも人の心の在り方として不自然なので、彼を脅そうとするヤクザでさえなぜだか居心地が悪くなるくらいだ。しかしその怒りの鬱積はただ感じ取ることが出来ないというだけであり、確実に存在している。育っていってる。地震をきっかけにしてそれが表に出てくるという話なのだが、片桐にはどうしてもその正体が掴めない。みみずくん対かえるくんというメタファーでしか語れない。なぜならそれは、今までずっと目を背けよう、無反応でいようと努力し続けてきたものだからである。その戦いのシーンでさえ彼は直接には見られないまま終わってしまう。

一方『多崎つくる』の主人公は怒りを独自のやり方で発露し、それを鎮めることに成功する。

この小説は冒頭でつくるが傷ついたということが強調される。友人からの突然の絶交に死ぬこと以外考えられないほどのショックをつくるは受けた。そこで小説の前半ではその主人公が傷を癒やす、あるいは傷を抱えながらもなんとか生きていくという試みが中心的に語られる。傷つけられたことへの怒りが顔を見せるのは中盤から、つくるがかつての友人たちと会いに行く場面からである。彼はまずアオに会う。

「それで、シロは何が原因で死んだんだ?」とつくるは話題を変えた。

不意をつかれて、話し相手であるアオは狼狽する。ただし二人の間の空気が不穏になるのは僅かな間だけであり、すぐに仲直りをして再会は終わる。

次に、アカとの再会はより緊張感をはらんだものになる。

「よそものになった僕を切る方が、シロを切るより実際的だった。そういうことか?」

  

「シロが死んだことを、なぜ僕に知らせてくれなかったんだ?」
 アカはしばらく何も言わず、ただぼんやりとつくるの顔を見ていた。目の焦点がうまく合わせられないようだった。

この後、アカは自分が同性愛者であるということをつくるに告白する。彼はそのことで疎外感や孤独を感じながら生きてきた。それはずいぶんキツい体験だった。その気持ちを正直につくるに言い、その傷を差し出すことで、アカはつくるに赦しを乞うたのである。するとつくるの怒りもおさまっていく。

「おまえにとって、いろんなことがうまくいくといいと思う。本当にそう思うよ」とつくるは言った。彼は心からそう思っていた。
「もうおれのことを怒ってはいないか?」
 つくるは首を短く横に振った。「おまえのことを怒ったりはしていないよ。もともと誰のことも怒ってはいない」

相手が傷つくこと、あるいは傷をすなおに告白することでしか、怒りを鎮めることはできない。つくるはさらにエリに会いに行くが、エリが自分の過去を語った場面で、そのことが再確認される。

 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

こうしてつくるは全ての友人と和解を果たした訳だが、興味深いのはその後の展開である。つくるは「沙羅が欲しい」という形で自らの願いをより強く自覚するようになる。また、冒頭に掲げた怒りを象徴する夢を見る。したがってここでは、「赦し」がまた新しい形の「怒り」を呼び込んだと言えるのではないだろうか。それは具体的な他者へ向けた怒りというよりは、自己の人生を切り開いていこうとする意欲という形を取ったものなのだ。

考えてみると、怒りは比喩と相性が良いのかもしれない。比喩とは要するにある物を別の物に置き換えるということである。ところで怒りを率直にぶつければ、そこには悲惨で恐ろしい事態が現れる他はない。だから、人は怒りを――片桐のように封じるのではなく――置き換えることに全力を傾けなければならない。置き換える際には「音楽の価値をまったく理解していない」人々に向けて優れた音楽を必死で演奏するような、徒労に似た努力が求められるだろう。しかしそれに上手く応えることができれば、彼は黒衣の女性の顔を見ることが出来るかもしれない。つまり他人と共有する類いの価値ではないが、本人にとっては何よりも意味のあるものに出会えるかもしれない。

 結び

この記事では村上春樹の怒りの書き方について論じた。『かえるくん、東京を救う』と『多崎つくる』の怒りの現れ方は対照的であるから、我々の理解を助けてくれる。また、怒りは願いや意欲が発現したり潰れることと密接に結びついていること、そしてそれは比喩によって語られるということが分かった。