『ゲド戦記 影との戦い』を読む

『ゲド戦記 影との戦い』は傑出した文学である。それは感触として分かるのだが、僕はまだその全貌を掴み切れていない。理解できたという感じがしないのである。それでもいくつか分かったことがあるので、ここに書いてみることにする。

まず冒頭の「ことばは沈黙に……」という箇所について触れると、これはどうやら創世記の「光あれ。」に反対しているらしい。まず言葉があって、事物があとからそれに従うという人間の傲慢な考え方に、ル・グウィンは抗議しているのだと思われる。この思想は至るところに顔を出している。次の引用は、ゲドがロークの学院に初めてやってきて、大賢人ネマールと会うところ。

 ふたりの目が合った。と、木の枝にいた小鳥がさえずりを始めた。その瞬間、ゲドはすべてを理解した。小鳥の歌も、噴水の池に落ちる水のことばも、雲の形も、そして木の葉をそよがす風がどこから来てどこへ行くのかということも、彼にはすべてのことが明らかになった。自分自身が日の光の語ることばのひとつであるように彼には思われた。
  (ル・グゥイン著 清水真砂子訳『影との戦い』)

「自分自身が日の光の語ることばのひとつである」。つまり、ここでは人間が太陽を作ったのではなく、太陽が人間を作ったのだ、ということが語られているのである。「光あれ」という言葉が太陽を作ったのではない。むしろこちらこそが太陽の「ことば」なのであって、人間とはそのような小さな存在なのだ。

次は同じことを語っている場面。親友カラスノエンドウの妹がゲド(ハイタカ)に質問をする。

「だけどね、ハイタカさん、わたしにはもひとつわからないの。わたしは、兄が、いえ、兄だけじゃなくて、お弟子さんだって、暗闇でひとこと言うだけで灯をともすのを何回も見てきたの。ちゃんと、明るくね。道を照らすのはことばじゃなくて、あかりでしょ? あかりだからこそ、見えるんじゃないの。」

「その通りだよ。」ゲドは答えた。「光は力だ。偉大な力だ。われわれはそのおかげでこうしてあるんだもの。だけど、光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。光はそれ自体で存在するんだ。太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。そして太陽の光の中に、その日々の進行の中に、四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。たしかに人は暗闇で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、光の場合とはちがうんだ。人は自分の力以上のものは呼び出せない。だから、いろいろ出てきたとしても、それはみんな目くらましにすぎないんだ。」 

万能の神が太陽を造ったという考え方に、ル・グウィンは根強く反対する。この考え方は、神が人間の創り上げたものである以上、すぐに人間が太陽を造ったという傲慢な考え方に結びついてしまう。彼女はそれを戒めているのである。

他に見るべきなのは、例えばゲドが鳥に変身して、それからなかなか元の姿に戻れないのを、師匠のオジロンが解呪してやるところなどである。僕はこの箇所を読んでプルーストのメタファーを思い浮かべた。彼女はおそらく文学の偉人たちがおこなってきた、変幻自在に言葉を操って読者を陶酔させる技術を諌めているのである。色々と言葉で人間の心理を操ってみせても、それは所詮上辺ばかりのことであり、本質的なことではないのだと彼女は訴えているのだ。結局人は元の姿へと戻らないといけない。言葉の魔術をやりすぎてしまっては、戻るのが苦痛になるだけだ。

また、この小説は細部がいい。ゲドは最初影に追われる立場に立つ。それから追う立場になるのだが、最終的にはそのどちらでもないやり方で影を追い詰めることになる。その時に、世界の果てで偽物の島へと上がっていく時の、ゲドの姿勢がいい。彼はオールを手にして船を漕ぐ。すなわち背中という「後ろ」を「前」にしながら進んでいくのである。それは裏と表が統合された在り方を想起させる。こうしたディティールを作者は優れたタッチで描いていると思う。