比喩を剥ぎとる

『失われた時を求めて』を本歌取りした小説

三島由紀夫の『豊饒の海』には『失われた時を求めて』のパロディ・シーンが数多く登場する。本稿ではまずその場面を拾い上げ、次にパロディの狙いについて考えていく。

例えば『春の雪』で清顕が聡子とともに雪の中を人力車で走る場面は、『スワンの恋』においてスワンとオデットが馬車に乗るシーンを置き換えたものである。どちらの小説においても、男の側は自分が恋に落ちていることを自覚していなかったのだが、その場面になってようやく女に夢中になっていることにはたと気がつく。

また『暁の寺』で主人公の本多繁邦が隣室の女性達のセックスを盗み見る場面は、『時』において主人公が女色を盗み見たり、シャルリュス男爵の男色行為を隣室で盗み聞きするシーンに触発されて書かれたものだろう。

 本多は覗き穴の隙間をあけるために、書棚から十冊の洋書を抜き出した。
 どこにも頭をぶつけぬように、覗き穴へ目を宛てることにも越度はなかった。この熟練の精妙さも重要だった。
(中略)
 慶子がややのしかかり気味に体をずらしたので、ジン・ジャンは、慶子の光る腿の間へさし入れていた首を、やや仰向き加減にした。おのずから乳房も見え、右腕は慶子の腰を抱き、左腕は慶子の腹をゆるやかに撫でていた。岸壁を舐める夜の小さな波音が断続していた。
 本多は自分の恋の帰結がこんな裏切りに終ったことに驚くことさえ忘れていた。それほどジン・ジャンのはじめて見る真摯は美しかったからである。

(三島由紀夫著 『暁の寺』)

ここに対応するのが次の場面である。

目を覚ますと、あたりはほとんど真っ暗で、起きあがろうとした拍子にヴァントゥイユ嬢が目に入った(……)。おそらく帰宅したばかりなのだろう、すがたが見えたのは私の正面の、目と鼻の先の部屋で、ヴァントゥイユ氏が私の父親を迎え入れた部屋を娘が自分のサロンとして愛用していたのである。
(中略)
「開けときなさいよ、あたし、暑いの」と友だちが言った。
「だって困るでしょ、見られたら」とヴァントゥイユ嬢が答える。
(中略)
「お嬢さま、今夜は、ずいぶんいやらしいことをお考えのようね。」おそらく以前に友だちが口にしたせりふを覚えていて、それをくり返したのである。
 クレープ地のブラウスの襟ぐりに友だちがいきなり接吻するのを感じて、ヴァントゥイユ嬢は小さな叫び声をあげて逃げ出した。ふたりが飛び跳ねて追いかけあい、ゆったりした袖をまるで翼のように羽ばたかせて、くっくっと笑ったり、ぴいぴいと鳴き交わすのは、愛しあう小鳥同士を想わせる。やがてヴァントゥイユ嬢がソファーに倒れこむと、そのうえに友だちの身体が覆いかぶさった。
 
(マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』第一巻)

補足しておくと、『時』の方は形式上は覗き見でも、実質的にはそうではない。一人称という制約上視点の移動が自由に効かないので、結果的にこのような形で表現されているというだけである。三島もおそらくそれは分かっていたろうが、彼はどうしても卑しい印象を受けてしまったので、自分でパロディとして描いてみたのである。

さて、もっとも決定的な場面は『天人五衰』の序盤で、本多が少年時代のホット・ケーキの旨さを独白するところである。これは『時』におけるマドレーヌの挿話を換骨奪胎したものに違いない。マドレーヌの挿話は『時』を読んだことのない人でさえ知っているくらい有名なエピソードなので、それを思い出させる挿話を書くというのは、『時』を意識していることを読者に向かって宣言しているようなものである。ちなみにどちらも回想と母という共通点を備えている。

さらに『豊饒の海』は全体的に一文が長く、美しい比喩が多用されるが、そのような文体もおそらくは『時』からの影響だと考えられる。

丁度ジン・ジャンはプールの喧騒に気をとられて卓へ背を向けていたので、その水着の背中の紐が、項で結ばれてから左右へ落ちて腰につながる間の、あらわな背筋の正しい流麗な溝が、尻の割れ目へとひたすら落ちて、割れ目のすぐ上の尾骶骨のところでその落下がつかのま憩らう、小さなひそかな滝壺のような部分さえ、窺い見ることができた。

(『暁の寺』)

比喩を剥ぎとる

ではこのような『時』のパロディの背後には、一体どのような狙いが隠されているのだろうか。

僕の考えでは、どうやら三島は『時』を破壊し、その代わりとして『豊饒の海』を打ち立てようと企図したようである。

『天人五衰』は序盤で過去を回想することの喜びを肯定しておきながら、最後にそれを否定しているというのが、その根拠だ。また比喩を否定しているのも『時』と真逆であり、関連がある。

夢のほうが愉しく、光彩に充ち、人生よりもはるかに生きる喜びに溢れていた。だんだん幼時の夢や少年時代の夢を見ることが多くなった。若かったころの母が、或る雪の日に、作ってくれたホット・ケーキの味をも、夢が思い出させた。

(『天人五衰』)

このように過去を肯定する一節を序盤におくのは、終盤でどんでん返しを書き、過去の否定を強調するための準備であろう。

『豊饒の海』という長い物語の終盤にいたり、本多もとうとう高齢の老人になってしまった。しかし『天人五衰』の作中、癖になっていた覗きによって本多の世間的な評判は壊滅してしまい、友人との交流も途絶えてしまう。いよいよ死も間近に感じられるので、ついに本多は聡子に会うという自らの願いを起こして、奈良の帯解まで出かけていく。

門跡になった聡子のいる月修寺まで辿り着くには、参道を昇っていかなければならない。この参道を昇る場面は『豊饒の海』の中で最も感動的な箇所であり、一字一句が光を放っていると言っても過言ではない。ただし本稿の文脈で大事なのは、この作品の特徴であった美しい比喩の表現が、ここでは姿を消しているという事である。すなわち『時』の文体の特徴が多彩な比喩にあるという点と、ほぼ対照を成すように書かれている。実は『豊饒の海』の中で最も美しい場面は、直喩がわずかしか見当たらないのである。

参道の場面で読者の気持ちを高揚させてから、物語は本多と聡子の対話の場面に入っていく。しかしここで我々は一気に奈落へと突き落とされてしまう。次の文中で、門跡とは聡子を指す。

 門跡は本多の則を超えた追究にも少しもたじろがなかった。これほどの暑熱であるのに、紫の被布を涼やかに着て、声も目色も少しも乱れずに、なだらかに美しい声で語った。
「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか? お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません」
「では私とあなたはどうしてお知り合いになりましたのです? 又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう」
「俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか? 又、私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?」
「たしかに六十年前ここへ上った記憶がありますから」
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
「それも心々ですさかい」

本多は清顕の思い出をとても大切にしている。それだけが彼に残っている唯一の純粋さだ。そして聡子は清顕の恋人であったため、本多は最期に彼女に会って、清顕について語りたかったのである。しかしその願いは「存じませんな」の一言ではねつけられてしまった。三島はこの下りを注意深く書いていて、例えば門跡の容姿を美しいものとして肯定的に描写することで、嘘をついている可能性や記憶忘れといった、読者の誤読の道筋を潰している。つまりこの場面では常識を超えた力が働いていて、まったく有無を言わせずに過去を粉砕しているとしか読み取れないようになっているのである。聡子が関西弁で喋っているのも、本多に感情移入して前のめりになっている読者の足を乱す役割を果たしている。

結局の所、『豊饒の海』は過去をすべて否定してしまう。小説を読み終えると、読者は「もうこれ以上はない」という印象を抱かざるをえない。全ては終わってしまったのだ。この時に我々が感じる虚しさは、『見出された時』で味わうことができる至高の喜びとは、正反対のものだと言えるだろう。『見出された時』では主人公が文学の夢を諦め意気消沈している状態から、真理を見つけて一気に喜びへの階段をかけあがっていくのが、『天人五衰』はむしろ逆になっており、主人公は喜びの状態から絶望へと叩き落とされてしまう。このような点もまた『時』とは対照的である。

まとめると、『豊饒の海』は過去を思い出すことの喜びを否定し、文学的にも比喩を採用しない文章の方が美しいことを主張することで、『時』を否定した。しかしそれはどこか自爆前提の特攻にも似た、虚無的な印象を読み手に与える。そこには何かが課題として残っているように思われる。実はそれは『1Q84』に引き継がれていくのだが、それはまた別の記事として書いていくつもりだ。

最後に付言すると、比喩の嘘を暴き立てるというテーマはタイトルである豊饒の海という言葉にも込められている。実際には、月には海などないのだ。