自由は存在しない

人に自由はない。たとえば僕は小説を執筆する際はいつも意識的に考えることをやめて、無意識から言葉をとりだしてくることにのみフォーカスしているが、とすると僕の執筆行為は僕の無意識に支配されていることになる。そこでおこなわれるのは僕と無意識のあいだでの交渉である。残念ながら無意識を一方的にあやつることはできないので、僕の執筆速度は僕が望むほど速いものにはならない。

あるいは僕は自分の小説を人からどう受け取られるかということに無頓着でいられない。僕としては本当はそうした雑念を捨てて、真に良い小説を書くことのみを追求したいのだが、僕はどうしても僕がそういう欲望を抱いてしまうことから逃れられない。僕にはそこについての自由はなく、ただ人から読まれること、受け入れられることを望まざるを得ない。

ときおり現代においても小説の文体を独特で変わったものにしている人を見かけるが、僕はそういう人を見て不思議に思う。なぜなら彼らも結局は我々人間自身や人間の行為や生活をそのまま描写したり、あるいはそれらのメタファーを描いているに過ぎないからだ。我々の想像力には限界があるので、すでに慣れ親しんでいることの延長上にあるものしか理解できないのである。いくら表面を奇天烈なものにしてもそこの部分は変わらない。本質が変わらないなら、表面のみを装うことに何の意味があろう。

彼らはきっと人間には自由があると信じたいのだろう。しかし実際にはそれは間違いである。たとえば人と話すことは相手との交渉事である。そこでは人格や考えだけでなく、互いの属性も作用してくる。自由を信奉する人は人格や考えのみを尊重するが、僕はこうした態度がいつでもうまくいくわけでないことを知っている。それは知の理想の世界でしか起こり得ない。それは存在しないし、そもそも我々は知のみで生きているわけでもない。

我々は産まれたときから牢獄に閉じ込められている。どうあがいても牢獄から出ることはできない。しかも、ありとあらゆることは交渉事である。走ることはたとえば肉体の能力の限界や空気との交渉事である。酸素を取り入れなければ我々は走れない。食事をすることは金を払うことであり、それは言うまでもなく味や量や予算との交渉である。小説を書いて公募の賞に出すことも出版社との交渉事だ。

こうした数々の制限から一瞬だけ、嘘だが、自由になれる方法がある。それが物語である。物語に没頭しているあいだは我々は何でもできる。もちろん物語の中から外に出ていけば、待っているのは過酷な現実である。物語を作る側はこうした悲愴な構図を見抜かなければならない。それが人間を知り、物語の本質に迫ることに他ならない。