ここしばらく僕はThe Birthdayというロックバンドの『誰かが』という曲を聴いていた。ずっとくりかえし聴いていたので、たぶん五十回は再生していると思う。
この曲はサビのメロディーと歌詞がよく噛み合っている。そこに僕は感動して何度も聴いてしまったのだ。次に歌詞の載ったページを掲げるので、開いて内容を確認してみてほしい。「誰かが」から始まっている行がサビだ。
これは読めば分かるように利他がテーマの曲である。困っている人を見つけたとき、とっさに体が動いてしまう。そうやって無意識のレベルで進んで人を助けるということの素晴らしさを謳っている。
こういうことをテーマにした芸術は多い。たとえばチャンドラーの小説『ロング・グッドバイ』がそうだろう。次に解説記事を掲げておくが、簡単に言うとこの作品のテーマは自己犠牲である。自分を犠牲にしてもパートナーや親友を守るということを善として押し出している。
『ロング・グッドバイ』の三人の医者 - Costa Rica 307
あるいは『ドン・キホーテ前篇』もそうであろう。主人公のドン・キホーテは自分を犠牲にして他者を救う。詳細は次の記事に書いておいた。僕はこの小説に絶大な感動を抱いたものだ。今まで読んできた小説の中でまず間違いなく最高のものである。
『ドン・キホーテ前篇』を読む - Costa Rica 307
さて、そうした芸術体験をこれでもかというほど経てきた上で僕は今日確信を得た。それは、利他の心や自己犠牲はくだらないということだ。我々人類はもうそれを善として採用しない方がいい。それはもはや今の時代に合った価値観ではないのだ。というか、むしろその考え方が我々を苦しめている。
利他が正しいと仮定すると、人間にはかならず助けるだけの価値があるということになる。一人一人に何らかの価値を認めるとなると、これは子供でも分かる計算だが、人口は多ければ多いほど良いという結論になる。また、人間には必ず助けるだけの価値があるので、基本的人権をすべての人に認めて、健康で文化的な最低限度の生活を送るだけのリソースを誰にも割くということになる。
しかし実際には我々人類は増えすぎた人口のために環境を破壊してしまい、そのバックラッシュのために大きな損失を受けている。顔を背けようにも背けられない、向かい合っていくしかない厳しい現実だ。もう我々は今までの考え方を根本的に変えざるを得ないのである。
では、この時代において我々はどのように倫理観を変質させていけばよいのか? 一体何が正解なのか?
僕の考えでは、答えは利己でもなくまた利他でもない。今はそれらよりもさらに高い心境にいたることが必要だ。
まず、生に関しては無意識を総動員し、利己心をも相対化する必要がある。利他は単に利己心を滅しただけの低レベルな心境に過ぎない。我々はそれよりもさらに心の器を大きくし、器の中に他者と自己の両方をすっぽりと収めるべきだろう。すると、自分という世界のリソースの一部を割いてまで相手に助ける価値が、人類的見地から見て存在するのかという問いに答えた上で、相手を助けるかどうかを決めるということが自然とおこなわれることになるだろう。非常に残酷なことだが、こういう計算を主人公がしない芸術作品は、むしろ人々から次第に受け入れらなくなっていくと僕は思う。自己犠牲も人間讃歌もどんどん後退していくだろう。少なくとも物語作品の王座にはいられないはずだ。なぜなら我々は今「人には価値の差がある」という非情な真理と対面しているからだ。助けるべき価値のある人間はそう多くないのである。
次に、我々は死を肯定することになるだろう。それも自己犠牲による死という、言わば交換条件を出した上での死の認め方ではなく、自然と、何の価値もなくただ孤独に消えていくという死を肯定せざるを得なくなるはずだ。これについてはまた記事を改めて考えていきたい。
