需要に応える

前回の記事の続きである。魂とは何か2 - Costa Rica 307

僕は先日、佐藤弘夫の『人は死んだらどこへ行けばいいのか: 現代の彼岸を歩く』という本を読んだ。内容はスピリチュアルなものではなく、日本人の他界観を大昔から現代にいたるまでさらい、その変遷を述べたものとなっている。

このことは本作にははっきりと述べられていないが、僕は、日本人の他界観は時代を下るにつれて貧しくなっている、と受け取った。現代において他界というものはほとんど消滅しているのだ。我々は共有できるような霊的価値観を持っていない。

問題は、これが無意識のレベルに属する話であるということだ。すなわち現代日本において我々は、個人で霊的な価値観を持つことはできない。我々は無意識の領域においては互いに強い影響をおよぼしあっており、霊的価値観を軽蔑することに密かに同意し、相手にも同意を迫っているのである。我々は心の底では死者との交信を馬鹿げたものとしてあつかっている。みんなで一斉にそれをしているのだ。

僕はこれを間違ったことだととらえている。なぜならそれによって我々は苦しんでいるからだ。死者との交信をさまたげられているし、死に瀕した人に向かって来世はあると励ませないし、自分が死に直面したときに大いなる虚無と対面しなければならない。我々は実は人生のさまざまな場面において苦しみ、心においては血を流しているのである。

けれどもこの事態を率直なやり方でひっくり返すことはできない。我々は今さら中世に戻り、現世を来世へと飛翔するための踏み台のような位置づけとしてとらえることはできない。他界はある、魂はあると信じることはできない。それは決定的な変化であり、人類にとって不可逆の移り変わりだったのだ。

では、どうすればいいのか?

答えは、明らかな嘘だと判明していることを信じる方法を発見し、それを発展させる、ということになる。僕がその方法を世に広める。物語を通じてそのような手法を説くのだ。我々はそれによって、知ることと信じることのあいだを和解させることができるであろう。明らかに「ない」とわかっているものを、それと知りながらも「ある」と信じることを実現できるであろう。自分の半身を物語の「外」に置きながらも、同時に物語の「中」にいることが可能になるに違いない。それはいわゆる狂信とは異なる。なぜなら本人は「魂がない」ことの知を捨てなくてよいからだ。むしろ、それをしっかりと保持しながらも信じることをするにはどうすればいいかを、我々は問うていくことになるだろう。「知る」と「信じる」は別のことだ。

僕は需要と供給というのはこういうことだと思っている。人々が心の底で求めているものを察知し、それを与えることが需要に応えることだというのが僕の意見だ。