霊とか魂とかいう話は、一言で言うならペテンである。人は死ねばそれきりであり、まったくの無になる。そこから先の世界は存在しない。
この話がむずかしいのは結論が出たので終わりということにならないところである。上記のようなことを主張した瞬間にかならず次のような問いが生まれてくる。すなわちこれから病気で死のうとしている人に向かって「あなたはまったくの無になるのですよ。この世界から永遠に追放されるのです」と言えるかどうか、という問いである。無論、理屈から言えば我々はそう主張することができなければならない。「正しい」というのはそういうことなのである。
しかしそれは知の理想の世界においてである。実際にはむずかしい。というかほとんどの人にとっては不可能であろう。僕にも無理だと思う。
エリザベス・キューブラー・ロスは若い頃にナチスの建設したマイダネックの強制収容所の跡地をたずね、そこで蝶の絵を多数見かけた。収容者たちが壁に何らかの道具で蝶の絵を刻んでいたのだ。彼女は「建物は蝶だらけだった」と言う。エリザベス・キューブラー・ロスはその後長い間をかけて蝶の絵の謎を探り、次のような結論にいたる。「死の床にある患者は五つの段階を経過していく。そして、そのあと、『地球に生まれてきて、あたえられた宿題をぜんぶすませたら、もう、からだをぬぎ捨ててもいいのよ。からだはそこから蝶が飛び立つさなぎみたいに、たましいをつつんでいる殻なの』というプロセスをへて……それから、人生最大の経験をすることになる。」言いかえると彼女は死後の世界について実在を主張しているのだ。
仮に我々が時空を移動し、戦時中のマイダネックをたずねて、そこに収容されている人たちに向かって「死後の世界は存在しません」と諭しても、彼らは聞き入れないであろう。そうした行為が傍から見てまったくの無益なことであるというのは僕にもわかる。つまりそういう生死の限界の領域においては霊とか魂とかいう話が生まれてくるし、何らかの意味を持ってくる。
だが率直に言って、我々は上記のような話を他者とすることに大きな困難やとまどいを覚えるものである。たとえばあなたは今から死のうとしている人に向かって、実際に「死後の世界は在る」とはげませるだろうか。「在る」と言ったとたんに「ではなぜお前は普段から死後の世界を信仰しないのか」という問いをあなたはつきつけられることになる。事実として我々のほとんどはお寺にも教会にも足しげく通っていないし、実際には無宗教に近いのである。自分が信じていないものを他者に対して「信じろ」と言えるものだろうか。
ある人は次のように主張するかもしれない。「自分は死にゆく人に向かって『あなたをいつまでも覚えている』と言うことができる」と。これは現代においてはよくある主張のように僕は思うので、じっくり考えてみたい。
まず、この主張は理屈から言って嘘である。その人はいずれ死ぬので、死んだら当然だが人を覚えておくことはできない。覚えるという行為の主体が消えるからだ。
とするとこの人は嘘を言うことによって何をしたいのであろう。無論、死にゆく人を慰めたいのである。それは誰にでもわかる。では、このような発言が死に直面した人にとって慰めになるのはなぜだろうか。
それは、我々の誰もが永遠に生きられると思っているからである。我々はどれだけ年齢を重ねても、母の腕に抱かれた幼子のような安心感を内に秘めている。それは非常に強力で、容易にはくずれない。死に直面した人は自分が死ぬことを知の領域においては理解しているので、なんとか形を変えて生き延びれないものかと願っている。それが他界にいくだとか、魂だとか、あるいは人に記憶されるということなのである。
このような素朴な信仰は、しかし平常時は抑圧を受けており意識されない。みんな自分が永遠に生きられるものではないということを一応頭では理解しているし、このような強い力はあくまでも縁の下の力持ちであって、前面に出てくるものではないからだ。けれども死という絶対的な否定に臨むと我々は土台がくずされるような不安を感じる。そこで我々は初めて自分が小さな子供のような世界観を胸に秘めていることを自覚する。すなわち、自分は永遠に生きられる。それどころか、強くて偉大な何者かに守ってもらえる。自分は世界の中心であり、したがっていつまでも安全で平穏でいられる。
エリザベス・キューブラー・ロスが言っている、死を目前にした人の心の平穏とは、このような力の自覚と無縁ではないと僕は思う。次の文章は彼女の著作の『人生は廻る輪のように』からの引用である。
その時期に起こったことから判断して、「人生の苦労の大半はすでに答えを知っている謎を解いているようなものだ」ということを、わたしはもう疑わなくなっていた。
「すでに答えを知っている」とは、つまり自分の中の前述のような強い力のことを指摘しているのだとすると、得心がいくのである。この力はとても強く、なだめられない。それは「あなたはじきに死ぬのだ」と説き伏せても一向に納得しない頑固者である。だから我々は死という絶対的なものと対立し、板ばさみになって苦しむことになる。
死を目前にして苦しむ人間の構図は、このようなものである。それは絶対的な未来の事実と自分の中の幼子のような「永遠に生きられる」という信仰との、葛藤なのである。我々は二者が衝突する間に入って苦しむことになる。消耗した彼または彼女が、いくらか諦めて、「別の形での生存」に望みをかけるとき、そこに霊性が立ち上がってくる。魂や他界などの領域に我々は足を踏み入れることになるのだ。
次の記事に続く。
