『ドン・キホーテ後篇』を読む

『ドン・キホーテ』は『前篇』が主たる部分である。『後篇』は単なるおまけに過ぎず、読まなくても問題ない。むしろ読まない方がいいかもしれない。

『後篇』の理解の鍵は『前篇』にある。『前篇』の理解度が完全であれば、『後篇』を理解するのはかなり容易である。逆に『前篇』が分かっていない場合は『後篇』の理解はぜったいに不可能となる。ちなみに『前篇』より『後篇』の方が面白いと気軽に言ってのける人のほとんどは分かっていない側の人物だろう。

『前篇』は滅私奉公の書である。己を犠牲にささげて世に奉仕するとはいかなることかを実践して示したのが『前篇』であると言える。その裏にはかならず作者の隠された痛みがあり、苦しみがあり、切実な涙がある。セルバンテスはおそらく、そこまでを含めた全体を理解してほしかった。自分のすべての意図を見抜いてほしかったのではないかと僕は思う。しかし、これも推測だが、たぶん当時のスペインの文壇からはそのような評価を得られなかったのだろう。それどころか、『後篇』を読んだ感じではむしろ貶されたようだ。

セルバンテスはそこで激怒した。だから彼は作家としてやってはいけないことを実行に移すことにする。『後篇』を書き、そこで読者を苛烈に攻撃するのだ。ただ、彼は底意地が悪かったので、一見そうとは分からないやり方を取ることにした。すなわち読者を存分に楽しませて、最後に楽しみを強引に取り上げるという物語構成を取るのである。

『後篇』のキーワードは「愚弄」だ。それも『前篇』とは異なり、執拗なまでに周囲の登場人物がドン・キホーテを愚弄するところに笑いの力点が置かれている。公爵夫妻は読者を代表する人物である。彼らは徹底的にドン・キホーテをこき下ろす。それは確かに笑えるのだが、読んでいる人は最終的に胸の内のなにか大事なところがすり減らされているような感覚を覚える。

さらにシデ・ハメーテは、こう付け加えている――人を愚弄する者たちも愚弄される者たちと同じく狂気にとらわれていると思う、現に、公爵夫妻は一対のばか者をからかい、もてあそぶのにあれほどまでの熱意を示しているのであってみれば、彼ら自身、ばか者と思われるところからほんの指幅二つと離れてはいないのだ。

つまり『後篇』で愚弄されているのはじつは読者自身なのである。セルバンテスはこう思った。『前篇』のポイントは慈悲である。そういうことが理解できない、笑いの部分しか読み取れない愚かな読者を自分は攻撃せねばなるまい。そしてそれを実行に移した。それが上記の部分だろう。

『後篇』のポイントは最初から最後に渡って、ドン・キホーテの周囲の登場人物が騎士道物語という妄想の世界にみずから踏み込んでいくところにある。学士サンソン・カラスコは鏡の騎士あるいは銀月の騎士となってドン・キホーテに戦いを挑み、サンチョは田舎の百姓娘をドゥルシネーア姫だと言い張り、公爵夫妻やドン・アントニオはドン・キホーテを本物の遍歴の騎士であるかのように彼を歓待する。

しかしその魔法も解ける。『前篇』が魔法、すなわち物語の力の復活や持続ということがテーマならば、『後篇』は魔法が解けて人々が現実に返っていくこと、物語が破壊されて消え去ることにテーマがある。

「およしなさいよ、ドン・キホーテ様」と、使者がひきとった、「魔法だとか変身だとかおっしゃるのは。そんなものは、これっぽっちもなかったんですから。だってわたしは正真正銘の従僕トシーロスとして矢来の仕合い場に入り、そのまま従僕のトシーロスとして出てきたんですよ。実を言うと、わたしはあのとき、あの娘御がひどく気に入ったものですから、戦いを放棄して、結婚しようという気になったんです。ところが、事はわたしの思いどおりには運びませんでした。というのも、あなた様があの城からお発ちになるとすぐに、公爵様は、わたしが決闘に赴く前に言いつけられた命令に背いたという理由で、わたしに棒打ちを百回くらわすようにお命じになったからです。そして、とどのつまりは、あの娘御は修道女になり、ドニャ・ロドリーゲスは郷里のカスティーリャへ帰ってしまいました。わたしは今こんな格好で、わたしの御主人の密書をバルセローナの副王のもとへ届けにいくところなんです。ところで、どうです、よろしかったら一杯やりませんか。この瓢に極上のやつをいっぱい入れてきましたから。」

『前篇』ではドン・キホーテはその献身によって数多くのカップルを成婚させたが、その力が今や発揮されないということがここでは示されている。ドン・キホーテに今や奇跡の力は存在しない。侍女のアルティシドーラも同様に自分の演技をみずから「嘘だ」と言ってドン・キホーテを罵るが、これもやはり魔法の解除、物語の終わりということと関連がある。サンチョの鞭打ちによって、期待されていたようにドゥルシネーア姫が元の姿に戻ることがないというのも、同じことだと言える。

なおアルティシドーラによって悪魔たちがテニスをする場面が語られるが、これは続編を勝手に書いた作者への怒りだろう。こんな風に『後篇』というのは要するにセルバンテス個人の私怨の書なのである。滅私奉公の『前篇』とはまったく正反対なのだ。

小説の最後にドン・キホーテ自身から物語の終焉が語られて、『後篇』は幕を閉じている。ここまできて鈍感な部類の読者もやっとこれが悲劇であることを覚るであろう。

「やあ、あなたがた、どうか喜んでくだされ、わしはもうドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャではありませんからな。日ごろの行ないのおかげで《善人》というあだ名をちょうだいしていた、あのアロンソ・キハーノに戻りましたのじゃ。今ではわしはアマディス・デ・ガウラ、ならびに、おびただしいその一族の敵であり、ああした遍歴の騎士道の不埒な書物をおぞましく思う者であります。あれらのものを喜んで読んでいた自分の愚かさと、みずからが陥っていた危険にやっと気づいたのです。つまり、神の広大無辺のお慈悲とわし自身の苦い体験により、ああした書物を嫌悪するようになりましたのじゃ。」