善意とは何であるか

人は何をするにしても他者を害しうる存在である。道を歩くことひとつをとってもそうだ。他者の前に立てばとうぜん相手は通行できずに迷惑するだろう。あるいは人前で言葉を発することもそうだ。言う内容はもちろんのこと言葉遣いをひとつ誤るだけで人は相手を傷つけてしまう。けっきょく人間というのは何をしても誰かを傷つけるかもしれない存在なのだ。そういう自己認識がある者だけが成熟した大人であると言える。

だから人はどんな動作をとるにしても何を言うにしても、常に自分自身に対して警戒心を持たねばならない。必要もないのに人と衝突するのは愚かなことだからだ。赤の他人はもちろんのこと、家族や伴侶を相手にするときでさえ人は気を抜けない。人はいかなるときでも自分を見張っているべきだと言える。「気の置けない友人」とは僕にはとうてい理解不可能な概念だ。

善意とは、そういう警戒心が働いていない状態のことを言う。だから善意でゴミ拾いを行えば人の通行の邪魔をするかもしれないし、車の運転をしている最中に善意でーールールに沿った義務感からではなく善意を働かせてーー通行人を優先的に渡らせればその後に他の車との接触事故を起こすかもしれないし、善意で人に物を教えれば相手は傲慢な物言いに激昂するかもしれない。そういうことに注意する心構えがないと人生を歩むのはむずかしい。善意を持つのは視力の低い人が眼鏡やコンタクトレンズを外すようなものだから、危険なのである。

したがって僕は生きるうえで善意を持たないようにしている。また、善意を持っている人を見かけたら「こいつは間違ってるな」と積極的に認識するようにしている。そのほうが物を見る目が磨かれるからだ。

善意を持ちやすいシチュエーションというのにも注意すべきだろう。典型的なのは人が人に物を教えるときだ。指導者が部下や生徒に暴力をふるったりハラスメントをしたりするのは、悪意からではなく善意からなのである。それが正しい人間理解というものだと僕は思っている。