『書記バートルビー』を読む

光文社古典新訳文庫で『書記バートルビー』を読んだ。面白かった。いや、面白いというよりは胸にささる切なさがあった。

この作品の良さはオチにある。結末において、実はバートルビーが「配達不能郵便物局」の下級職員だったことが明かされる、その瞬間の衝撃が本作のすべてだ。我々はそこで深い打撃を受けて思わずうずくまる。それまで存在していたコミカルな雰囲気や主人公の困惑は一瞬にして蒸発し、ただ真実の重みだけが我々の手元に残される。一個の人間がかつては確かに存在していたこと、その尊厳の重みが手元に残されるのだ。

二分法

この作品の骨子は善悪の二分法である。それは次のような形で冒頭で顔を見せる。

さて私の事務所はウォール街某番地の建物の二階にありました。一方の端の窓からは、大きな吹き抜けの側面にあたる白い壁が眺められました。その吹き抜けは建物の下から天辺まで貫いていました。この眺めは、どちらかというと単調で、風景画家が言うところの「生気」を欠いたものかもしれません。ですが、そうだとしても、事務所のもう一方の端からの眺めは、やはりそれ以上のものではないにしても、少なくとも、対照的ではありました。そちらの方の窓から眼の当たりに眺められたのは、長い年月にわたってずっと日陰になっていたことによって黒ずんだ、そびえ立つようなレンガの壁だったのです。もちろん、その壁に潜む美しさを見つけ出すのに、わざわざ望遠鏡を持ち出す必要はありません。

この場合の善とは白の壁、悪とは黒の壁である。しかし付属する説明を見ると、どうやらそれは困惑を伴っているようだ。確固たる意志で白が善、黒が悪とはっきり分類されているわけではないらしい。

全編に渡ってこのような二分法はくりかえされる。たとえばターキーは午前に有能で紳士的だが、午後は怒りっぽくなり仕事も雑になる。つまり一日の時間が午前と午後で二分されており、午前が善、午後が悪というわけである。ここの箇所だけ見ると非常にはっきりと善悪が分かれているように見えるのだが、話はこれで終わらない。ニッパーズという同僚がいて、彼は逆に午前が悪で午後が善なのだ。つまりターキーのカウンターとしてニッパーズがいるので、一見善悪が明瞭に分かれているように見えて、よく反省してみるとそうでもない、という構造がここには成り立っているのである。これは最初の壁の話の構造と似ている。

二分法は続く。

すりガラスのはまった折りたたみ戸によって私の事務所は二つに分けられていました。片方のスペースは書記たちが、もう片方は私自身が使っていました。

事務所内は上司である私と部下の書記で二分されている。さらに新たに雇ったバートルビーに対しては衝立が設けられ、私とバートルビーという形で空間は二分される。

その後に主人公が日曜の朝に事務所を訪ねて、バートルビーがそこにいることが発見されるが、この時に次のような記述が出てくるのは見逃せない。

日曜日のウォール街は、砂漠に見捨てられた古都ペトラのような孤絶の空間だ。それに毎日夜になると誰の姿も見られなくなる。この建物も、週日ずっと、日中は勤労に集中する生活力一杯の人々でごった返しているが、日が暮れると純然たる無人の世界となって、空漠がこだまする。とりわけ日曜日は一日中物寂しく荒涼としたままだ。

つまりここでは日曜と平日、また昼間と夜間という形でウォール街が二分されているわけだ。

その後に主人公はバートルビーを追い出そうと奮闘し、離縁を叩きつけてから事務所を出るが、その帰り道に次のような言葉を聞く。

そのようにあれやこれやと考え続けているうちに、ブロードウェイとカナルストリートが交わる角のところまできましたが、そこにはかなり興奮した人々がいて、熱心に議論しているところにぶつかりました。
「ダメな方に賭けるね」通り過ぎる時に誰かの声が聞こえました。

これは選挙の話である。つまり当選か落選か、という二分法がここには顔を覗かせている。

それ以外にも例えば、主人公が連日馬車で移動し続ける場面が出てくるが、ここには定住と移動という二分法が登場している。

さらに言うとバートルビーが使う「prefer」という動詞は、辞書をくると第一義に「prefer A to B」という形で使われ、「BよりAを好む」という意味を持っている。ここにも善悪の二分法が顔を見せている。しかしバートルビーのそれはnotと否定を伴っている。そこらへんが困惑気味の二分法なのだと理解される。

そう考えると主人公のバートルビーに対する態度も明らかになってくる。彼は基本的にはバートルビーを守ろうとしている。神の愛までもがそこで語られるところを見ると、バートルビーを庇護する態度は善のようである。しかし彼はたびたびバートルビーを追い出そうと頑張る。それは悪の態度だ。彼は善と悪のあいだを行き来する。つまり、やっぱり判然としない二分法の態度をとっているわけだ。

以上のような構造が順調に発展していき、帰結する先が「配達不能郵便物」なのである。どういうことか。我々は普段の生活において、家族や上司や社会の要請を受けて、さまざまな善悪を日々判断し、悪を拒んで善を実行している。しかしそのような態度の裏には取り残されたものが確かに存在している。考えてみれば善悪という判断基準はそうとうに強力なものだ。それは人の個人的な好みや身勝手な望みを斟酌せずに、大きな力で我々に「正しい」行為を強要する。我々は何かを諦めてその力に従わざるをえない。その諦められたもの。善にも悪にも帰属させられないもの。それを象徴するものこそが「行く当て」を持たない「配達不能郵便物」なのである。

それは個人の遺志や望みだ。バートルビーは、実は我々が日々諦めている、自分たちの望みの体現に他ならない。それは死という形に帰結する。だから我々はこの作品の結末に切なさを覚えるのだ。バートルビーは僕たちなのである。

くりかえし

もうひとつのポイントはくりかえしにある。主人公は書写という仕事についており、同じ文章を再生産するという仕事についている。それは書写に加えて、原本と読み合わせをするという作業までついてくる。

また、preferという言葉が主人公や他の同僚に伝染していく。この言葉は作中に何度も出てくる。

ただその意味や効果は僕にはよく分からなかった。しつこいな、という感想しか抱けない。これは今後の読解の課題だろう。

文学におけるくりかえしは数学における素数のようなものだ。基礎的なものであり、非常に重要なものであることは分かるのだが、その仕組みや法則はよく分からない。神秘のヴェールに包まれているのである。

類似作品

似た性格の作品として、カフカの『変身』やゴーゴリの『外套』がある。

TBD