コスタリカ307

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『変身』と『かえるくん』

久しぶりにカフカの『変身』を読み返した。最初に読んだのはもう十年以上前になるが、その時は「なんだか不思議な話だな」ぐらいにしか思わなかった。しかし今回は細部までよく理解でき、面白く感じられたので、備忘録として記事を書くことにした。ちなみに読んだのは中井正文訳である。これは名訳だった。優れた翻訳文は詰まるところ日本語の文章そのものが上手いので、読んでいて気分がいい。

 『かえるくん』との共通点

人は毎朝起きて出勤しなければならない。多くの人が体験している、しかし「解決」ということが不可能な出来事に対して物語を与えてやると、それは優れて人の心に響くものとなる。(このことは『夢応の鯉魚』に関する記事のなかで指摘した。)『変身』の場合は、「朝の出勤」に焦点を当てていると考えられる。それが導入部になっているので、読者としては興味を持ちやすい。というのも、心地よい眠りから目覚めてベッドから這い出し、面倒な仕事に行かなければならない、あの実に嫌な気持ちを我々はくりかえし感じているからだ。

話はそのまま仕事と、仕事から得た収入で家族を養うということに繋がっていく。家族といっても妻子ではなく、自分の両親や妹だ。彼は自分の生み出したもの・得たものを守っているのではなく、自分を生み出した存在に仕えている。仕事はつらく、主人公グレゴールの魂を締め上げ苦しめている。ただしその中でも妹の存在だけは希望として、彼の胸のうちに残されている。彼女に音楽の勉強をさせてやるというのがグレゴールに唯一残っている純粋な願いだ。

このような設定を、村上春樹の『かえるくん、東京を救う』がほぼ忠実に引き継いでいるので、比較しながら読み進めてみよう。小説というのはともかく文字ばかりがずらずら並んでいるものだから、丸ごと取り扱おうとしてもどこから切り込んでいいのか検討がつかない。しかし比較という形にすれば共通部分や差異の箇所だけが問題になるので、そこが橋頭堡となって攻略がしやすくなるのである。

まずは両作の共通点を挙げていく。『かえるくん』も『変身』同様、一行目から異形の存在を出現させている。開始の合図とともにいきなり読者に対してジャブを浴びせる格好は同じだ。その異形の存在は物語の前提として置かれており、出現した経緯の説明はなされない。また、主人公がとてもきつい職に就いている。彼らはつらい労働の代価として得た収入で家族を養っているが、作中で家族に感謝される様子は一向に見られない。また、家族は自分の妻子ではなく弟や妹、あるいは両親である。作中で何度も金の話がされるところも似ている。そして物語の大筋としては、主人公が苦しむ方向に進んでいく。

これらの具体的な作中の事実から、『かえるくん』は『変身』を下敷きにして書かれているという推測が成り立つ。ただしこれだけでは単なる推測にとどまるので、可能なら証拠をつかむことで正しさを担保したい。いつでもそのような証拠が見つかるとは限らないが、今回はかなり有力なものが見つかったので、次に示す。

次に錠へさしこんであった鍵を口にくわえて回してみようとした。ところが、悲しいかな、一本も歯のないことがわかってみると、何で鍵をつかんだらいいのか見当もつきかねる。

 

いろいろな食事のときの物音にまじって、絶え間なく噛みくだく歯の音が聞こえてくるのが、グレゴールにはなんだか異様にかんじられる。まるで食べるためには歯が必要なことと、歯のないあごはどんな美しい形をしていても役に立たないことを、ばりばり噛む音で歯のないグレゴールへ見せつけてやらねばといわぬばかりなのだ。

フランツ・カフカ中井正文訳『変身』)

上記の箇所を踏まえて書かれたのが『かえるくん』の次の文だ。どちらも「歯がない」ということが明記されている。

かえるくんにはきんたまだけではなく、歯もなかった。

村上春樹著『かえるくん、東京を救う』)

このようにはっきりと符号する文章を書いているのは、読者に対する作家なりの目配せ、合図と言える。これで『かえるくん』が『変身』を参考にして作られた小説であるということが確かめられた。比較対象としてはやはりそういう作品を持ってくるのが一番おもしろいし、理解も深まる。

 『かえるくん』との差異

これら二つの作品の間のもっとも大きな差異は、苦しみに対する主人公の態度だ。グレゴールは一見苦しんでいるようだが『変身』には終始ユーモアが登場するので、苦しみと正面から向かい合うことは回避されている。だがその結果、グレゴールは大きな川の流れに逆らうことができないような形で運命に引きずられていき、最後には命を失ってしまう。彼はほとんど抵抗しない。抵抗というものが出来ない人間なのだ。一方『かえるくん』の主人公・片桐は破滅するまで自分自身の苦しみを苦しむ。その姿勢はきわめて真摯なものだ。

変身のユーモアは特異である。具体的に見ていこう。

さてと、自分が乗る汽車は五時だから、そうだ、まず起きなくてはなるまい。

 

「ところで……」と、グレゴールは口をきりだしたが、いま冷静さを保っていられるのは自分ひとりだということを十分に意識した上のことだ。「わたしはすぐ着換えをして、商品見本を鞄へつめこんで出発しますよ。出発さえしたら文句はないんでしょうな。さて、支配人さん、わたしが強情っぱりどころじゃなくて、たいそう仕事好きな人間であることがよくおわかりでしょうね。」

これらの箇所の面白さは、グレゴールが自分が虫になっていることを考慮せずに発言しているという所にある。周囲は彼が虫であることを認識し、かつ問題視しているので、そのギャップが我々に笑いをもたらす。(正確には、グレゴールは自分が虫になっていることを知っており、かつそれが問題であることも分かっているが、重大なレベルではないと受け取っている。)

ひどい自己嫌悪と、不安におそわれて、彼はそのへんを這いまわりはじめて、あらゆるものの上を這った。壁や、家具や、天井などをさんざん這いまわったあげくに、部屋全体が自分のまわりをぐるぐる回転し出したと思うと、彼は絶望状態に陥ってしまって、とうとう大きなテーブルのまん中へ落っこちた。

ここの面白さは、一つ目に、登場人物がアニメ『トムとジェリー』のどたばたアクションのように、あちこちを猛スピードで駆け巡ったあげく、徒労に終わってしまっているという点にある。これはベーシックなタイプの冗談である。そのようなジョークを飛ばしているという姿勢の裏には、主人公が虫になってしまっているという恐ろしい前提への、奇妙な無関心さがある。もう一つの面白さとして、そのような無関心さがあると言えるだろう。  

――そのとたん、そう力をこめずに投げつけられたものが、彼と紙一重のところへ落っこちて、ころころと目の前へころがった。りんごだ。すぐ二番目のが、自分を目がけて飛んでくる。グレゴールはあまりの怖ろしさにじいっとその場に立ちすくんで、身動きさえできなかった。父親がりんごの弾丸で自分を砲撃しようと決心したからには、いくら走って逃げたところで無駄だった。

グレゴール・ザムザは投げられたりんごによって傷を受け、最終的にそれがもとで息絶える。ナイフで刺されたとか拳で殴られたとかではなく「りんご」という点がいかにも人をおちょくっているようで、そこがカフカ流ということだろう。父親に殺されることでさえ、カフカにしてみればよく出来たジョークに過ぎない。

まとめると、『変身』のユーモアの要諦は、自分の傷や苦しみに無自覚であるということだ。知っている上でなお冗談を言って、一時的な落ち着きを確保しようとしているのではない。血が出ているにも関わらず、まるで痛みもないし、そもそもその出血に気づいてすらいない。それがカフカの笑いなのだ。『変身』は笑える小説なのである。

しかし笑ってばかりいても事態は解決しない。よくよく『変身』という小説を反省してみると、グレゴールは驚くほど受け身である。事態は確実に一歩一歩悪くなっていく。抵抗はもちろん、逃げることさえしない(逃げないというのは『城』の特徴でもある)。そして最後には死んでしまう。

率直に言って、グレゴールが苦しんでいる理由は第三者から見れば明らかだ。彼は家族という重荷をこれ以上背負いたくないのである。仕事という負荷が、心のキャパシティを越えてしまったのだ。虫になったのはグレゴールの意志によるもので、彼はいわばストライキをしているのである。しかし彼はそれを知覚することができない。それほどまでに自分自身の願いや、あるいは現状への怒りや不満といったものを、封じられてしまっているのである。他の誰でもない、まさに自分自身の心の在りようを、彼は自覚できないでいる。家族の要求を聞くあまり、自分自身の内なる声には耳をすますことができなくなってしまった。最後に家族全員が手に職をつけているのは注目に値する。要するにグレゴールはそこまで働く必要などなかったのだ。

しかしこのような分析は力を持たない。「分析」をしたところで、今ここで問題となっているものに対して、その本質に働きかけることはできない。というのも、まさに小説の主人公が無自覚だからだ。彼には見えるべきものが見えていない。自分自身の「願い」がない。他者の限度を越えた要求を追い払う「怒り」がない。いや、本当はあるはずなのだが、無意識はそれを見ることを徹底的に拒否している。『変身』においてグレゴールが虫になった経緯が問われないのは、そのような無自覚性と深い関連がある。

だからやるべきことは、まずそこに息を吹き込んでやることだ。

『かえるくん』は、グレゴールの人生をより良いものにしようとして、もう一度生き直した小説だと考えられる。片桐はかえるくんを通して、やってくる地震の「震源地」を突きとめる。それは片桐の勤める「東京安全信用金庫新宿支店の真下」なのだ。言い換えれば、片桐の怒りがみなもとになっている。『変身』では虫になった経緯が問われなかったのに対して『かえるくん』では地震の正体を追求している。これは明確な差異であり、ひとつの前進だ。しかし片桐は後もう少しというところでみみずくんと対面できずに終わってしまう。このことは、彼は自己の怒りや願いを直視しようと頑張ったのだが、やはり不可能に終わったのだと受け取ることができる。また、かえるくんは地震を防ごう、鎮めようとして戦った。しかしその勝利によってもたらされた結果は虚しい。かえるくんもまた滅び、片桐が病床に追いやられたということだけだ。結局のところ、自己の怒りを我慢しようとしても事態は解決しないということが、ここでは示唆されているのだと思われる。

ではどうすればいいのか? それは村上春樹の『1Q84』や『多崎つくる』などに語られていることであり、本ブログでも他の記事で解説していることなので、本記事では扱わない。

なお『変身』の細部の読解を、さらに別記事として書く予定である。その際も村上春樹と比較して考えていく。