コスタリカ307

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封じられた意識を自覚する

雨月物語』に収録されている『夢応の鯉魚』を読んだところ大変おもしろく、実に驚かされた。そこでなぜこの作品がこんなにも面白いのかについて考えてみた。

 感じているはずだが意識されないことについて語る小説

まずひとつに、人間が本来は感じているはずだが、普段は意識されないことをこの小説は描いている、ということが挙げられる。そのような小説の例として有名なものに、『失われた時を求めて』がある。

これらの花は、断崖のうえの庭をいろどるペンシルヴェニアのバラの植え込みにも似た軽やかな生け垣によって私の前の水平線を縦に切断しており、花と花のあいだには蒸気船の通る水平の航跡が収まっている。蒸気船は、青い水平線上を一本の茎からもう一本の茎へとゆっくり進んでゆくから、ずっと前に船体が通過した花冠の奥にぐずぐずしていた怠け者のチョウも、船の進む先にあるつぎの花の最初の花弁に舳先が届くには紺碧の隙間をほんのわずかに残すだけになるのを待って飛び立っても、確実に船よりさきにその花に着けるのである。

マルセル・プルースト吉川一義訳『失われた時を求めて岩波文庫版 第四巻)

解説すると、船は遠い所にあるので非常に小さく目に映り、ゆっくりと動いているが、花はすぐ手前にあるので、そこをいきかう蝶は船よりも(見た目上は)速く動く。だから蝶はあっさりと船を追い越して次の花まで移動できる、ということを描写した場面である。

我々は目に映っている映像をそのままの形で認識しているわけではない。これまでの学習結果を活かして、遠くにあるものは「遠くにある」と認識し、つねに「あれは遠くに存在しているから小さく見えるんだ。そしてゆっくりと動いているのだ。本当に近づいたらもっと大きいだろうし、ずっと速いかもしれない」と、自分自身に言い聞かせながら歩いているのである。でなければ我々は車に轢かれて、満足に街に出ることもできないだろう。

ここでプルーストが語っているのは、そのような色眼鏡を外して物を見てみると、人の目には実に不思議で面白い映像が現れる、ということだ。プルーストは長い経験から、人の頭にはしっかりと見た映像が記憶されているということを知っていた。だからその記憶された原映像というべきものを読者に対して再現してやれば、大きな感動を引き起こすことができるはずだと考え、このような文章を書いたのである。

このように「感じているはずだが、普段は意識されないこと」を上手く突いた例を、我々はさまざまな小説のなかに認めることができる。そのうちの代表的なものは男性の性欲の持ち方だろう。例えば『私を離さないで』という小説には、次のような箇所がある。

申し上げたいのは、その初回から、悲しみに染まった何かをトミーに感じたということです。いまこうしているのは嬉しい、こうできるのは嬉しい、だが、ようやくいまになってというのが、おれは悲しい……。

カズオ・イシグロ土屋政雄訳『私を離さないで』)

この物語は一人称で書かれていて、主人公の女性とトミーは子供の頃仲が良かったが、結局恋人同士になることもなく大人になってしまった。それから時が過ぎ、特殊な事情によりトミーは病人のような状態になった。そのトミーと主人公がようやく肉体的に結ばれようとしているのが、上記の場面である。男性の性欲は突発的で、凶暴なものだ。それは一瞬のうちに、彼を襲うようにやって来る。だから社会の秩序のために、この世のほとんどの男性は非常に強力な抑圧を、つねに自分自身に課しながら生きている。ということはつまり、男なら誰であれ実際にセックスをする時はすでに「遅い」のである。最初に感じた、あるいは感じられるはずだった性欲の時点からすると、たとえ相手が好きな異性であれ、あるいはそうでなくても、随分後になってから本物の達成がやって来たと言わざるをえない。そのような「普遍的な」封じられた悲しみ、自覚されることのない喪失を、引用した箇所は物語を通して指摘している。人の心の深いところにまで届く文章というのは、そういったものだ。

このような性欲の抑圧を示唆している場面としては、他にもたとえば『1Q84』の牛河のエピソードが挙げられる。電話で青豆の調査を依頼した相手から、ある女性が使いとして牛河のもとへ派遣されてくるのだが、その時に牛河は特殊なショックを受ける。彼は子供の頃から醜かった。「初対面で牛河の顔を見てたじろがない人間は珍しい」ほどに。だがその美しい女性は彼を見てもまったくたじろがず、むしろ親しい微笑みを与えてから帰っていったのである。それは却って彼に、美しい女性から拒否される痛みや悲しみを思い出させるものだった。より正確には、思い出す場所に至るための通路が現れた、といったところだろうか。

 その小柄な女が部屋から出て行ったあと、長いあいだ牛河は割り切れない気持ちでドアをじっと見つめていた。彼女が背後に閉じていったドアだ。部屋の中にはまだ彼女の気配が強く残っていった。ひょっとしたらその女は、気配を残していくのと引き替えに、牛河の魂の一部を持ち去ったのかもしれない。彼は新しく生じたその空白を胸の奥に感じることができた。どうしてそんなことが起こるのだろう、と牛河は不思議に思った。

村上春樹著『1Q84』)

 無自覚な罪悪感

『夢応の鯉魚』は人の罪悪感について語っている。それも殺人のような分かりやすい罪悪感ではなく、生き物を捕まえる、殺して料理するということについて語っている。

罪悪感は不快な感情だから、人はそれを抑圧しようとする。しかも鳥や魚をさばいて料理するというのは社会的に許されている行為だし、人間なら誰もがその営みに何らかの形で繋がっているので、ほとんどの人はそれを悪だと思っていない。そのため封じるのは簡単である。

しかし我々はその行為に、実際はちゃんと罪悪感を感じながら生きている。『夢応の鯉魚』を読んだときの読後感によって、それが分かる。この種の罪悪感は抑えつけるのが簡単なだけにかえって自覚しにくいという面があるのだが、『夢応の鯉魚』はその壁をうまく乗り越えていると思うので、大変優れた物語であると私には感じられた。

 話中話と犠牲

ではどのようにして『夢応の鯉魚』は人々の心の強い抵抗を乗り越えているのだろうか。いや、それは乗り越えているというよりは「すり抜けている」と言った方が正確かもしれない。我々は気がつかない間に目的地へと運ばれてしまっているからだ。お説教をされたとか、作者の熱い思いが込められたメッセージを受け取ったとかいう印象はまったくない。それは実に爽やかな読後感なのだ。

『夢応の鯉魚』の中で重要な人物は、料理人+漁師の文四と、僧の興義の二者になる。料理人と文四はひとまとめにして扱ってよい。我々の日常における意識は料理人のそれであり、罪悪感は表に出てこない。しかし確実に心の底のあたりに蓄積していってる。興義はそのような我々の罪悪感を、我々に代わって告白してくれる役目を担っている。だがその感情は普段は強い力で抑えつけられているものだから、特殊な径を通らなければ発見することはできない。その通路が、話中話と、犠牲という概念である。

この小説は前半で興義の死と蘇生、そして檀家の家の情景を言い当てるという不思議な現象が語られる。その後に一見それらとは関係の薄いように思われる、興義の夢の話が、興義の口でもって語られる。今まで語られてきた物語とは別の物語が語られる訳だが、読者はそちらの方が面白いので、つい引き込まれて集中してしまう。そのような状態のところに、最初の物語が思いがけない形で合流してくるのである。そのような「不意打ち」を喰らうと、読者は驚きを覚える。驚くことは面白い経験であり、人は面白いことを合理的だと思う傾向を持っているので、このような異なる話の接続を深く納得する。

また、犠牲は人を説きふせる働きを持つ。僧の興義は魚となって死を体験する訳だが、そのような苦しみを目の当たりにすると、人はそれに崇高さを覚えて本能的に正しいと思う。魚が苦しんでいるのは、そもそも魚が苦しんでいるのかどうかよく分からないので、人は納得されない。しかし興義は人間なので、興義が苦しんでいれば人は納得されるのである。その興義が「私を(鯉を)さばくのをやめてくれ」と苦しみながら叫んだと言うので、人はそこで「なるほど、鯉をさばくのはやめよう」と思うのである。作中では助という人物がそのような心持ちを「代弁」してくれるので、読者としてはますます納得されやすくなる。自分では認めにくいことを、他人が先んじて認めてくれると、人は心が安らぎ、素直になれる。このように考えると、物語や枠物語は犠牲という概念と相性がとても良いということが分かってくる。

このような一連の心の運動を、「魚が口をパクパクと動かす」という誰もが見たことのある情景に上手く当てはめたからこそ、『夢応の鯉魚』は物語としての大きな力を獲得したのだろう。

我々は魚が口をパクパクと動かすのを見て、そこに声がないことを実は不思議に思っている。無意識のうちに牛や鶏が鳴き声をあげることと比較しているのである。そのような魚の「失われた声」をこの物語は与えてくれる。意識上の疑問よりも無意識下の疑問に答える方が、より深く人の心を打つのだ。

 物を食べる

以下は余談になる。

この小説はディティールが優れている。例えば魚を捕まえる人、料理をする人、料理を食べる人をきっちり分けている。別に漁師が料理をして自分でそれを食べても構わないわけだが、作者はきっちりと人物を分けて配している。それによって社会というものが語られているし、読み手は自分自身をどこかの役に当てはめやすくなる。

「料理を食べる人」である助が、最後に鱠(なます)をわざわざ捨てさせるのは興味深い。これは魚や鳥を捕まえておきながらも放すという、作中で語られている行為に連なるものだろう。

現代の日本人はほとんどの人が、ほとんどの時間を「料理を食べる人」として過ごしている。私がこの作品を読んで考えたことは、人はある願いや感情を抱いたとき、それとほとんど反対の思いも無意識の中で生まれているのではないか、という事である。要するに我々人類は皆、日常生活において、「物を食べたくない」と幾度も思いながら暮らしているのではないだろうか。そんな馬鹿な、とおっしゃる方もいるだろう。しょっちゅうそんな風に感じられるのは満腹であるときとか、胃や体調が悪いとき、あるいはよっぽど気分が落ち込んでいるときに限られるだろう、と。けどよくよく考えてみればダイエットだとか、米を食べるのはやめるだとか、あるいはベジタリアンだとかいうことは、そうしたことと繋がりがあるのかもしれないとも思うのである。一時期、主人公が物を食べまくる競争をするドラマが放映されていた。なぜ多くの人があれを見たのだろう? これまでの議論を下敷きにして考えてみると、「自分に代わって、ドラマの中の登場人物が、自分のやりたくないことをやってくれているから」とも考えられる。なぜ多くの人が自分の飲食店を開きたいと思うのだろうか? 我々は日頃からもっと料理をして、人に食べてもらうべきなのかもしれない。人の心は実に不思議な構造をしているものだと思う。