『象の消滅』を読む

村上春樹の『象の消滅』について書く。

『象の消滅』は大半の文章が象の説明に割かれている。『僕』と『彼女』の話は長さとしてはわずかであり、象の消滅の持つ意味を再確認する役割を担っている。

この作品は全体が二重の入れ子構造になっていると捉えることができる。入れ子の内側の主な登場人物は「僕、象、飼育係」であり、外側は「彼女、僕」である。どちらの話も中心にあるのは覗きという行為だ。入れ子の内側において、象に対しては僕が「覗き見る者」であり、象と飼育係が「覗き見られる者」である。そして外側の彼女と僕の関係においては、僕が「覗き見られる者」であり、彼女が「覗き見る者」であるという図式が成り立つと考えられる。

主人公は普段は見ることのできない象舎の中を覗くが、それによって象と飼育係は消えてしまう。これが「見てはならない」という約束を破った結果であることは、理解しやすいと思う。日本神話のイザナミも黄泉の国で夫に自分の姿を見られ、激怒し、二人の別れが決定的になった。鶴の恩返しという昔話は誰もが知っているが、これもやはり女の禁止を破ったために主人公は破局を迎えている。

 「見るなの禁」を犯したために、女性が立ち去っていく話としては、神話のなかの豊玉姫の話が思い出される。豊玉姫は彼女の宮殿がある海底まで訪ねてきた、山幸彦と結婚するが、妊娠して子どもを生むときに、産屋のなかを覗かないように、と言う。ところが、夫の山幸彦は禁を破って見てしまい、豊玉姫が鰐の姿になっているのを知って驚く。彼女は夫に自分の醜い姿を見られたので、そこを立ち去り、海底の世界へ帰っていく。
(中略)
 美と醜の、このようなダイナミズムのなかで、イザナミや豊玉姫の場合は、むしろ醜の部分が強調されたのはどうしてだろうか。これはおそらく「見る」ことと関連しているようだ。相手を「対象」として見る――そのことは禁止されているのに――、そのことが醜の側面を露わにするのではなかろうか。日本人ならよく知っている「夕鶴」の話の原話である「鶴女房」などの多くの異類女房の話においては、男が「見るなの禁」を破り、覗き見をすることによって、女房の「本性」つまり、鶴、魚、蛇などが明らかになると共に、彼らの関係は破局を迎える。それまでは共に住んでいた二人なのに、男が敢えて女を対象として「見る」と、その関係が壊れてしまう。

(河合隼雄著『物語を生きる』 岩波現代文庫)

「彼女 - 僕」の関係においては覗き見ではないが、見るべきでないものを見たという点は似ている。主人公が心の内に秘めておかなければならなかった象の話をうっかり吐露してしまったことが原因となって、彼女は「僕」から去ってしまうのだ。

僕はやはり象の話なんてするべきではなかったのだ。それは口に出して誰かに打ちあけるような類いの話ではなかったのだ。

(村上春樹著『象の消滅』)

「彼女 - 僕」の関係性は象と象の消滅の意味の大きさを噛みしめるために置かれているという面がある。象が消えることは他人ごとではなく、ほかならぬ「僕」自身の問題なのだ。未来の愛の芽が摘まれることに等しい、あるいはそれ以上に大きなことなのだ。

では象とは何なのか? なぜ象は消えてしまったのか? それは実は僕にも分からないので答えようがない。しかし頭を働かせて何とか推測をおこなってみると、次のようになる。

まず、象自体はどうでもよい。実はそれはただの老木であってもよいし、猫でもよいし、自分の影でもよい。ここで問題になっているのはそのような象的存在の「取り扱い方」であって、それそのものではないと僕は思う。そのような存在の「内側」を「外側」を見るような態度と同じやり方で接してはならないということ、また自分自身が抱えているそのような象的な「内側」を、何の準備もなしに直截に「外側」に出して他者に見せるようなことは、してはならないということだ。それはモラルの問題なのだ。自分が傷つくだけでなく、相手も傷つく。いや、「僕」や「彼女」その人自身はむしろ重要ではない。二人が親密に語り合っている時に中心となっているのはむしろ二人のあいだの「関係性」であり、それを汚されたように感じてしまうから問題なのだ。