以前別の記事でも述べたことだが、僕は図らずも自作の長編小説でドン・キホーテ的な人物を描いていた。それは常に空想を続ける人間だ。空想にはまり込み、ほとんどそれと一体化しているような人物のことだ。
僕はそれをさらに掘り下げるといいのではないかという気がしている。つまりその性格をより徹底するのがいいと思っている。
それはこういうことだ。その人物が現実で立ったり座ったりするだけで、その人物のもうひとつの世界、すなわち空想の中で別の人物が立ったり座ったりする。あるいは何でもいいから、何かしらの変化がその世界に起こる。蝶が花にとまったり飛び立ったりしてもいいだろう。
そういう風に現実の世界と空想の世界を地続きで描く。こういうことをすでにしている作家はおそらくいくらでもいるだろう。ただし、重要な勘所をつかんでいる作家はそう多くないはずだと僕は思っている。ポイントはドン・キホーテ的であるということだ。たとえばドン・キホーテは完璧なまでに弱い。これ以上みじめな位置に立てないというところに彼はいる。小説『ドン・キホーテ』にはさまざまな被差別者が登場するが、ドン・キホーテはその中でも最下層に配置されている。
それでいてドン・キホーテは無敵だ。彼の空想の力に助けられて作中では多くの男女が成婚し、救われる。その空想は本来は何の役にも立たない、馬鹿馬鹿しいものであるはずだ。しかしその馬鹿らしさとみじめさが徹底されるとき、そこに全力がつぎ込まれるとき、奇跡が生じてくる。
僕は実際に長編小説の書き出しを1万5千字ほど書いてみた。すると主人公の性格がそこで浮かび上がってきた。興味深いのはドン・キホーテとはけっこう真逆であるということだ。まず性別と年齢が違う。ドン・キホーテは男で老齢だが、僕の書いた主人公は女性で若い。いつも頭の中で空想をしている点は同じだが、ドン・キホーテがそれを周囲にまき散らすのに対して、僕の主人公はそうではない。彼女は頑なに空想を隠している。おのれだけの秘密としている。またドン・キホーテが神秘的な力で周囲の人物を次々と救うのに対して、僕の主人公はおそらくは自分ひとりを救うことだけに焦点を置いている。そういう数々の対比がある。
これはおそらく時代の要請にもとづくものだろう。400年前のスペインと今の日本とではだいぶ時代の空気が違う。そこらへんの機微はまだ僕には説明できない。今後きちんと考えていきたいところだ。
