『豊饒の海』と『百年の孤独』の共通点

共通点を挙げる

『豊饒の海』と『百年の孤独』には共通点が多く、興味深い。まずは思いつくままにそれらを列挙してみよう。

  1. 物語の冒頭から終盤まで出ずっぱりの登場人物が一人いる。彼・彼女は若い頃は影が薄く、物語の主人公を他の者に譲っているが、終盤老人になると急に存在感を示すようになる。(『豊饒の海』では本多繁邦、『百年の孤独』ではウルスラ。)
  2. 上記の老人が自分で産んだわけではない子供を育てようとして、教育に失敗する。
  3. ある血統の歴史が物語の中心軸である。(『豊饒の海』の場合は血ではなく転生。)
  4. 西洋文明から見ると辺境が小説の舞台となっている。また西洋文明に辺境が侵食されていく様子を指摘している。
  5. 華麗な比喩を否定し、その比喩の背後には痩せた現実しかないことを暴露した。
  6. ラストシーンで「すべてが無に帰した」ことを強調している。
  7. 物語の始まりと終わりをつなげようとしつつ、しかし切断されるという構造が見受けられる。
  8. 実在したはずの過去が否定される。(『豊饒の海』では門跡との会見の場面が相当。『百年の孤独』ではバナナ会社に雇われていた労務者の虐殺事件やアウレリャノ・ブエンディア大佐のこと。)
  9. 登場人物の一人が、内容が暗号で書かれている本をひたすら読み続ける。(『豊饒の海』では夢の日記。『百年の孤独』は文字通り暗号で書かれている本。)
  10. 発表時期がほぼ重なっている。(『豊饒の海』は第一巻発行が1969年、『百年の孤独』は1967年。ただし前者の連載開始は1965年。)

発表の時期がほぼ重なっていることを考慮すると、一方が他方を参考にしたことはありえない。とすると三島由紀夫もガルシア・マルケスも、同じ思考を経たから同じ結論に達したのだと考えるのが自然だろう。この場合「同じ思考」とは「同じ小説を読んだ」ことに等しいと言っていいのではないか。正直に申し上げて僕の乏しい読書量ではそれらを全て挙げることは不可能であるが、項目5・6・7・8に関しては幸い候補があるので、ここで意見を述べてみたい。

こちらの記事(リンク)で述べたように、『豊饒の海』は『失われた時を求めて』を参考にして書かれている。それは比喩の否定という考え方に関係があり、具体的には参道の登攀のシーンに相当している。最後の場面、すなわち門跡との会見に至ると、比喩の否定はさらに過激な主張に発展する。比喩を取り去った背後には、記憶、すなわち現実さえ存在しないのだという虚しい真理が明かされるのである。つまり列挙した項目の内の5・6・8は、『時』と大いに関連があると言えるだろう。

言葉の嘘を指摘する

実は『百年の孤独』も『失われた時を求めて』との関連が深いのではないか、というのが私の推測である。それゆえ必然的に同じ結論に達したのではないだろうか。ただし『豊饒の海』の場合とは違って、確実にこれと言える証拠のシーンが作中には見当たらなかった。もしかしたら存在するのかもしれないが、私には見つけられないだけかもしれない。ともかく本稿で述べることは、どこまでいっても仮説の域を出ないということをお断りしておく。

まず『百年の孤独』と『時』のそれぞれから、対照的な場面を引っ張ってこよう。どちらも大好きな箇所なので、長くてもついつい全文を引用したくなってしまう。次は『時』からの引用で、主人公は親友のサン・ルーと共にレストランにいて、浮かれた気持ちでお酒を飲んでいる。

給仕をするボーイたちは動物のようにテーブルのあいだに放たれ、全速力で遠ざかりつつめいめいの差し出す掌のうえに料理を載せていて、まるでそれを落とさずに駆ける競走かと思わせる。実際、スフレ・オ・ショコラはひっくり返りもせず目的地に到着し、ポム・ア・ラングレーズは駆け足(ギャロップ)に揺られても出発時と変わらずボーイヤックの子羊のまわりにきちんと並んでいる。こうしたボーイのなかで私の目を惹いたのは、非常に背が高く、みごとな羽毛のように黒髪をなびかせ、化粧でもしているように見える顔色の、人間というより珍種の鳥に似た男である。休みなく、当てもなくと思えるほど、ダイニングルームの端から端へと駆けまわるさまは、動物園の大きなフライングゲージを派手な色彩と不可解な激しい動きで満たす「コンゴウインコ」の一羽かと思えた。やがてあたりの光景も、すくなくとも私の目には落ち着いて、はるかに気品あふれる静かなものになった。あの目まぐるしい動きもすっかり鎮まり、調和をとり戻している。レストランに集められたおびただしい数の丸いテーブルを眺めていると、昔の寓意画に描かれた多数の惑星を見る想いがする。おまけにこの多様な天体のあいだには抗いがたい引力が働いていて、どのテーブルで夕食をとる客もよそのテーブルばかり見つめている。例外はある裕福な招待主だけで、首尾よく高名な作家を連れてきたからか、降霊術のターニングテーブルの霊験に頼って、ご婦人がたが目を丸くするようなくだらない話題を作家からひきだそうと躍起になっている。かくして天体のごときテーブルのあいだには調和が保たれ、そのあいだをおびただしい数の給仕人がたえまなく動いている。連中は、夕食客のように座っているのではなく立っているから、いわば上層圏を移動しているようなものだ。なるほどそのひとりは、オードブルを運んだり、ワインをとり替えたり、グラスを追加したりと駆けまわっている。ところがこうした個別の理由があるにもかかわらず、給仕人たちが丸テーブルのあいだをたえず駆けまわるこの目まぐるしい往来にも、最終的には一定の法則があることがわかる。大量の花が飾られた背後にはふたりの怖ろしげなレジの女がでんと腰かけ果てしなき計算に没頭しており、中世の科学に基づいて理解されたこの天空にときに生じる大変動を天文学の計測によって予知すべく奮闘しているふたりの魔術師に見えた。

(マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』第四巻 P371-P373)

『百年の孤独』からは売春宿の描写を引用してみる。すでにマコンドの町は滅びつつある状態だが、まだ人は住んでいる。アウレリャノは友人たちと共に「娘たちが飢えのために春をひさぐ家」、女郎屋へ行く。

女主人は、ドアの開けたてをひどく気にするが、愛想のよい年増の女だった。張りついたようなその笑顔は、どうやら客たちの人のよい信じやすさが原因だった。彼らは想像のなかにしか存在しない店を、現実のものと考えていた。そこでは手で触れられる物までが非現実的だったからだ。家具は腰かけようとすると崩れてしまった。機械の部分がない電蓄のなかでは雌鳥が卵をあたためていた。庭園の花は紙だったし、暦はバナナ会社が来る数年前のものだった。女主人が客の来たことを知らせるとやって来るおどおどした娼婦でさえも、ただの空想の産物にすぎなかった。彼女らは声もかけずにあらわれた。花模様の服は五年ほど昔のもので、着たときと同じ無邪気さでそれを脱ぎ、絶頂に達するころに驚いたような声で、あら、天井が落ちそうだわ、などと叫んだ。そして花代の一ペソ五十センタボを受け取るとすぐ、女主人が売っているパンやひと切れのチーズを買うのに使った。そういうときの女主人はなおのこと愛想がよかった。彼女だけが、その食べ物もほんものではないと知っていたからだ。当時、メルキアデスの羊皮紙に始まりニグロマンタのベッドで終わる世界の住人だったアウレリャノは、ばかげているが内気な性格を治す方法をその架空の女郎屋で見いだした。最初は彼もとまどった。いちばんいい時に女主人が部屋へはいって来て、本人たちの内面的な魅力について止めどなくしゃべるからだった。しかし、日がたつにつれてその種の災難にも慣れ、ある晩などはいつもより羽目をはずして、控えの間で裸になり、途方もなくでかい逸物の上にビール瓶をのせて平衡を取りながら、家じゅうを走り回ったりした。彼のせいでとっぴなことがはやり出したが、女主人はいつものとおりにこにこしているだけで、文句も言わなければ、本気にもしなかった。存在しないことを証明するために、ヘルマンがその家に火をつけたときも、また、アルフォンソが鸚鵡の首をひねって、折りから鶏のシチューが煮え立ちはじめていた鍋に放りこんだときも、それは変わらなかった。

(ガルシア・マルケス著 鼓直訳『百年の孤独』)

この二つの文章は非常に対照的である。『時』は "現実" の上に比喩という魔法をていねいに塗りたてており、それによって読んだ者をすばらしく幸福な気持ちにさせる。それは胸の深いところから湧き立つ種類の喜びなのだ。

一方『百年の孤独』は文章の力によって、女主人が言い張る「女郎屋」という言葉の "嘘" をはぎとろうとしている。実際は女主人は無知な娘たちを利用して、搾取しているだけなのだ。言葉という衣服を取り去ると、そこには痩せた "現実" しか存在していない。このような指摘が『百年の孤独』のテーマの一つなのだろう。そしてその時読者が味わう爽快感は、自暴自棄ともとれる攻撃性をともなっている。そこで我々が感じるものは、自分自身が死ぬ快感なのである。なおこの箇所はバナナ会社と労務者の関係性の縮図にもなっているので、作品にとって大事なところだと思われる。この描写のすぐあとに虐殺事件やブエンディア大佐の存在が否定されるというくだりが出てくるので、項目5と8は隣り合わせと言っていいほどに関係が深い。

始まりと終わりの構造について

もうひとつ重要な点は、作品の冒頭と結末をどのように繋いでいるか、ということである。この点も『豊饒の海』と『百年の孤独』はよく似ており、両者はそろって『時』の構造に反対している。

『時』は主人公がついに文学上の真理を発見し、小説を書くことを決意するところで終わっている。その読後感はとても不思議なものだ。というのも、その真理を駆使して書かれた小説が、まさに『失われた時を求めて』に他ならないことを、我々読者は自然と了解してしまうからである。我々は小説の最後の部分がそのまま最初の部分につながっているような印象を抱くことになる。作品は一つの円環を成しているのだ。

これに対し『豊饒の海』と『百年の孤独』では、結末部分で物語の断絶性が強調される。特に最初と最後を結びあわせようとして、しかし切断されるというエピソードが現れるのが特徴的である。『豊饒の海』では第一巻でも本多が門跡に会いに行っているので、終盤の聡子との会見はその再現と受けとれる。しかし本多の期待は裏切られ、まったくの無が立ち現れる。

『百年の孤独』では、序盤で語られた豚のしっぽのエピソードが、生まれてきたアウレリャノの子供に豚のしっぽが生えているという形で再現されている。また、作品の前半でブエンディア一族に与えられた羊皮紙が、最後に再びアウレリャノの前に出現し、一族の歴史を明らかにする。だが「羊皮紙の解読を終えたまさにその瞬間に、この鏡の(すなわち蜃気楼の)町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えることは明らかだった」と語られ、最初と最後を結びつけようとする試みは拒否される。円環は切断され、一つの線分に変形されてしまうのだ。

結び

まとめると、次の四つの点については『百年の孤独』と『豊饒の海』は非常によく似ており、しかもそれは『失われた時を求めて』と対照的であるということが言えるだろう。

  • 華麗な比喩を否定し、その比喩の背後には痩せた現実しかないことを暴露した。
  • ラストシーンで「すべてが無に帰した」ことを強調している。
  • 物語の始まりと終わりをつなげようとしつつ、しかし切断されるという構造が見受けられる。(円環の切断)
  • 実在したはずの過去が否定される。

ただし『豊饒の海』は作中に『失われた時を求めて』へのパロディを明確な形で印しているのに対して、『百年の孤独』にはそのような記述が見当たらないため、強い論拠はないと言える。

本稿は以上で終わりとなる。この推測が正しいかどうかは分からない。ただし読書を重ねていくうえで、「似たもの」を見つけることは非常に大切であると私は思う。特に今回の記事で挙げたように、まったくお互いに影響を与えなかったであろう二人の作家が同じ考えに至ったのなら、それは極めて重要な真理である可能性が高いのではないだろうか。