本記事では村上春樹の『ノルウェイの森』を読み解いていく。引用時に示したページ数は講談社の文庫版にもとづいている。
歌詞との関連
まずはビートルズの曲について確認していこう。 歌詞のくわしい解説がこちらのページにあったので、参考にさせてもらった。
曲の歌詞は本小説と以下のように関連している。
- 一度仲良くなった女性に、結局は袖にされてしまう。
- 「部屋に招き入れる」という行為は包含関係の構造とかかわりがある。
- 鳥が去ってしまうという歌詞をヒントにした表現が小説中に見られる。
1はこの小説を読んだ人にとっては解説するまでもないだろう。メイン・ヒロインである直子は一度主人公と恋人のような関係になるのだが、結局は主人公の求愛をふりはらって自殺してしまうのである。
2は後で述べる。
3だが、注意深く読むと、直子といる時は鳥は飛び去っていくのに対して、緑といる時は鳥は電線や木などに止まっていることが多い。直子は死んで現実の世界を離れていくのだが、もう一人のヒロイン・緑はそうではないのである。
- 直子といる時
- 上巻P9 「まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。」
- 上巻P190 「まわりの林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。」
- 上巻P280 「時折目の前を頭に羽根かざりのようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていった。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。」
- 緑といる時
- 上巻P125 「校舎にはつたが絡まり、はりだしには何羽か鳩がとまって羽をやすめていた。」
- 上巻P163 「どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。」
- 下巻P79「ときどき雀がやってきて電線にとまった。」
- 下巻P100「鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていった。」
- 下巻P175「例によって鴉が屋根の上にとまってあたりを睥睨しているだけだった。」
このような表現を積み重ねていくと、次の引用に見られるような複雑な表現が可能になる。これは上巻のP267-268から引いたもので、阿美寮に来た主人公が直子と会ったあとに見た夢の描写である。
そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さな鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒きれを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛びたつかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。
ここでは直子と会っているにも関わらず鳥は止まっている。つまり本来とは逆が描かれているため、注意深く読んでいる読者はこれは一体どういうことだろうと疑問に思うのだが、その後の描写が直子の心の病的な硬直性を説明しているので、得心がいくのである。このような表現は直接的な描写よりもはるかに効果的に読者の心へ訴えかけるものだ。
なお螢のエピソードも鳥が飛び去っていくという表現と一部重なっている。一つの型をすこしずつ形を変えて何層も重ねていくと、文章の力はより増す。
色の意味
本作にはさまざまな事物に「色」が付与されているが、そこには意味がある。キーとなるのは上巻序盤の次の一文である。
僕は緑のフェルトを貼ったビリヤード台や、赤いN360 や机の上の白い花や、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。
一文の中に三つの色が続けて明示されているこの箇所は、緑・赤・白の三色に意味があるということを宣言しているところである。順に説明すると、赤色は危険・死・異界を、緑色は安全・生命・現実世界を指しており、白は死後しばらく時間が経過した状態を指している。
次に例を挙げよう。
- キズキは主人公とビリヤードを遊んでから赤い車の中で死ぬ。つまり生きている間は緑(ビリヤードの盤の色)だったのが、死ぬ時は赤に移行するのである。
- 緑と直子という二人のヒロインは対照的に描かれているが、生命力のある緑の方に「緑」という名前がつけられている。
- 緑が主人公に対して、生理の時は気が立っていて危険だから、サインとして赤い帽子をかぶると言う。
- 主人公がきゅうり(緑色)を食べているのを見て、物を食べるのを拒否していた緑の父親もきゅうりを食べたがる。この場面は肯定的に描かれている。主人公は緑の父親に好感を持つ。緑もまた主人公に好感を持つ。
- 主人公が阿美寮に初めて足を踏み入れていく時、本館の受付に「赤いワンピースを着た若い女性」を見つける。阿美寮という「異界」に入ったことを知らせる信号である
- ハツミの死が語られる箇所の直前に、世界が夕日によって一面赤く染まった様子が描かれる。
- 下巻P200 桜の花が死にゆく肉体を表すものとして、緑の芽がそこからの再生として表現されている。
- 序盤で語られる井戸の底の白骨
- 直子の姉が自殺した時に身につけていた白のブラウス
- キズキの死後に、彼の机の上に置かれた白い花
- また主人公が阿美寮から帰還した後に、白いポールを白骨のようだと表現している箇所がある
ただし、あまり何でもかんでも色に意味があると思わない方がよい。よくよく考えてみれば我々の周囲にあるほとんどすべての事物には色がついているのだから、意味を付与できない場合があるのも仕方ないだろう。たとえば上巻P164(緑と初めて口づけをする場面)で主人公は「赤とんぼ」を眺めていたと言うが、これが危険・死・異界などを意味しているとは思えない。
また主人公が飲むコーラはペプシ・コーラであるとわざわざ明記されている箇所があるが、果たしてここに意味はあるのだろうか。赤や緑といった色を避けるために書かれていると推測することも可能ではあるが、別段何の意図もないこともあり得る。ペプシのロゴの公式ページ http://www.pepsi.co.jp/history/logo.html を見ると、1962年のペプシのロゴには赤・黒・青がバランスよく混じっているので、赤を強調するのを避けることができる訳だが・・・・・・。あまりこのあたりを深く考えても仕方あるまい。ちなみに、ここでの正解はおそらく「三島由紀夫を意識してコカ・コーラから外してきた」という所だと思う。
要するに色の意味にはあまり強い法則性がないので、分からない場合は素直に通り過ぎた方がいい。このブログでくりかえし解説してきた『1Q84』という小説には構造や法則に一貫性があり、ぶれることがないのだが、『ノルウェイの森』はけっこういい加減ではないかという気がしている。
生と死の包含関係
本作では「あるものが別のものを内に含む」という構造が所々で顔を見せるが、これは作品を読み解く鍵となっている。このような包含関係には二種類のものがある。一つは生が死を含むあるいは死が生を含むといった構造をしており、もう一つは庇護を意味している。重きが置かれているのは前者の方なので、まずそれを解説する。
作品の冒頭で直子の口から不吉な井戸の存在が語られる。草原のどこかに危険な井戸があり、その穴に落ち込んでしまった人は二度と這い上がれず、少しずつ弱っていって死んでしまう。この話には読むべきポイントがいくつも詰まっている。
ひとつには、包含関係が語られているということがある。井戸が生者を飲み込み、死に至らしめる。よく読むと数ページ前に「まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。」とあるので、「緑が赤を含む」、つまり「生が死を含む」という構造の予兆が語られていると分かる。そう考えると「草原」の必然性も理解されてくる。「緑色」の草原のなかに「死=赤」の井戸が含まれているというわけだ。
また直子自身の口から死の予感が語られており、これが作品全体の方向性を決定している。似たような挿話として「僕」が寮の屋上で螢を放すというのがある。瓶は直子の肉体、螢が魂を指している。いずれ直子は死んで魂が体から離れていくのである。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。(略)
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
(略)
螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。
上記はすべて生-死の包含関係に分類される。この種の包含関係の例は上巻P54にも見つかる。「ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。」
そして忘れてはいけないのは、やはり次の一文だろう。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
話を井戸の方に戻そう。指摘すべきポイントは、最終的に主人公がこのような「井戸」にはまりこんでしまうということだ。彼はキズキと直子を通じて死の世界へと踏み込んでいくのだが、長くそこに留まりすぎた結果として抜け出せなくなってしまう。つまり周囲が現実の世界=生=緑、そして中心が異界=死=赤という構図の中で、「僕」はその中心にはまりこんでしまい、脱出が不可能な状態におちいってしまうのである。
以上の了解があると、「僕は今どこにいるのだ?」という問いの答えが分かる。彼は井戸の底にいるのだ。また、小説の最後の一文もよく理解される。「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」とあるが、「どこでもない場所」とは赤色の場所、異界を指している。その周囲に「緑」、すなわち現実界があるのだが、彼はそこに這い上がっていくことができない。したがって序盤に置かれていた井戸の挿話には、主人公の最後を予告する働きがあるのだと分かる。
ところで主人公は小説の序盤において「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」と言っている。これは緑が周縁で赤が中心という構図において、主人公は緑の側にいながらも赤い場所からの信号を、すなわち異界からのメッセージを受け取り続けていた、ということを意味している。やがて彼は直子を介して異界へと移動する。すなわち周縁から中心へ移ったのである。それは彼としては一時的な移動のつもりだったのだが、とうとう抜け出せなくなってしまった。それが最後の一文に表現されていると捉えると、論理が一貫する。次の引用箇所は、主人公が死の世界からなかなか現実に帰還できない様子を示している。下巻の前半、阿美寮から帰ってきた直後のところである。
店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものをほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲーム・センターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ・ゲームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」をかけてくれないかと言った。(略)
そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。
以上の議論を単純に図示してみた。
ところで、生と死の包含関係についての「僕」の考察は直子の死後にさらなる発展を見せる。死の世界へと移った直子を追って、主人公もまた「奇妙な場所」へと行き着く。
そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所とは死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。
つまり緑のなかの赤には、さらにその内側に緑が含まれていたのである。マトリョーシカ人形のようなものだろうか。しかしこの卓見はそこで途絶えてしまう。彼は力尽きてしまい、そこから先へと進めない。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。
主人公が中心の赤、すなわち異界から脱出して緑に戻るためには、『ねじまき鳥クロニクル』を待たなければならない。『ノルウェイの森』では主人公は意図せずに井戸に落ちてしまいそこから抜け出せなくなるのに対して、『ねじまき鳥クロニクル』では主人公はむしろ自らの意志によって井戸の底に入る。そこで彼は異界へと移動し、ヒロインを助けてから生還することに成功するのだ。ただし、そこではヒロインの側にも強さと意志、そして犠牲を払う覚悟が要求されることになる。
色々述べてきたが、この包含関係も色と同様に曖昧なところがあり、常に成り立っているわけではないように思われる。やはり『ノルウェイ』は少しばかりルーズなのである。
ちなみに文庫版の表紙は、上巻は赤が緑を包んでおり、下巻では緑が赤を包んでいるのだが、これは読者に包含関係を示唆するヒントとみなせるだろう。
庇護の包含関係
井戸のエピソードにおいて、死の予感を語る直子に対して、主人公は「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」と呼びかける。彼は「庇護の包含関係」を用いて直子を守ろうとするのである。
このことが分かると、後に登場する類型の表現もおのずと理解されるだろう。上巻のP279において、急な坂道をレイコと直子と主人公が登っていく様子がえがかれているが、このとき彼らは弱い存在である直子を「真ん中」に置いている。そしてその背中を見守ることができる最後尾という位置に、主人公はついているのだ。
もっと分かりやすい場面はその少し前のP233で、「僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。」とある。また「僕」は緑に対して「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」と言う。これらが庇護の包含関係にあたる。
言いたいことを言葉に出来ないというテーマ
最後に「言いたいことを言葉に出来ない」というテーマを取り上げる。この主題は上巻P45で初めて直子の口を通して宣言される。
「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」
次はP62から。
たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。
「彼女は僕に何かを伝えたがっている」という部分が大事である。それは伝えられることによって初めて形を獲得するたぐいのものなのだ。上手な受け取り手・聞き手がいて初めて話し手もその正体を把握し、伝えることができるようになる。話し手だけが存在していても上手く行かないのである。
しかしこの説明では分かりにくいであろうから、実際に成功している例を見てみよう。そうすれば腑に落ちてくる。実は緑は「うまくしゃべることができない」ことをどうにかして上手く伝える天才である。
上巻の半ばで主人公は初めて小林書店、つまり緑の家に行き、そこで昼食をごちそうしてもらう。そこで緑は父親について話すときに、本当のことを言うのを避け、ウルグァイに行っていると「僕」に言う。事実としては、父親は病院で死に瀕している。そして緑はその看病で疲れているのである。この箇所をよく読むと、緑は家族について話すときに父親の話を最後に持っていき、かつ間を置いていることが分かる。
「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど」
緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。
「そう」
「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」
「ウルグァイ?」と僕はびっくりして言った。
つまり緑は父の死が目前にせまっているのが辛く、はっきりと言葉にしにくいのである。直子であれば、ここで何も言うことができずに静止してしまうだろう。しかし緑はわがままを言うこと、相手に嘘をついて振り回すことによって己の鬱憤を発散しつつ、真実への第一歩を踏み出していくのである。なるほど、ウルグァイに行ったというのは嘘であろう。しかし簡単に手が届かないところに行ったという点においてはそれもまた真実なのだ。緑は聞き手である「僕」がそのような嘘に付き合ってくれるからこそ、初めて「うまくしゃべることができない」ことを伝えられるのだ。このようなステップを踏まずに緑が主人公を病院に連れていくことは、おそらくなかったと思う。病院で昼食を食べているあいだ、緑は看病の苦労を主人公に率直に吐露する。長いステップを通過して、ようやく緑はそのような苦しみを主人公に伝えることに成功するのである。
さて、昼食のあと緑と「僕」は火事をながめながら歌を歌いビールを飲む。そこでは母が死んだときの気持ちが緑の口から語られる。緑は悲しくなかった。彼女の心の奥ではなにかが複雑に絡まり合っていて、素直に悲しめないのである。注目すべきなのはその時の煙の描写だ。
「(略) べつに嬉しかないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」
なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。
緑は涙一滴「出ない」。しかしすぐ目の前では煙がいっぱい「出てくる」。この対応性から、どうやら煙の描写に緑の心情が表れているらしいと分かる。緑は何を言うためにこんなにも饒舌にしゃべりつづけているのだろう。「いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろう」? その疑問はつづく緑の言葉によって解かれることになる。母も父も自分に充分なだけの愛情を注いでくれなかったという不満が、自然な感情の発露を妨げているらしいと分かってくるのだ。ところでこの小説は一人称で書かれており、この煙の描写も当然緑の話の聞き手である僕によるものだ。このことについて考えてみると、相手が「うまくしゃべる」ためには、聞き手の姿勢が重要であるということが明らかになってくるのではないだろうか。
主人公は相手が黙っているときでも、上手に言葉を引き出すことができる。緑の父親は病気のために喋ることも難しく、手術のために頭痛がして気力もない。何も食べようとしない。「僕」はそういう人を前に、自分の生活について話を始める。つまり、目の前の事態とは何の関係もない話をする。曲がったものを直すアイロンがけや、複雑にこんがらかった状況を整理するデウス・エクス・マキナについて喋る。そしておいしそうにきゅうりを食べる。それがきっかけで緑の父にも食欲がわき、きゅうりを食べるのである。そして主人公に緑のことを託そうとする。
以上の議論から、物語が緑の側にあるときは、難しいことを伝達すること・受け取ることが上手く行くらしいと分かる。しかし直子においてはそうではない。
直子は最後まで「うまくしゃべる」ことができないままその生涯を終える。読者の中には「何だかよく分からない話だった」という感想を抱く人も少なくないだろう。『ノルウェイの森』はそういうことを意図して作られた物語なのである。分からないまま相手が去ってしまうという話なのだ。残された側はただ苦しむしかない。鶴になった妻が逃げていく話や、月に行ってしまったかぐや姫の話と同じである。
今後、「僕」にはより根源的な「聞く」姿勢が求められるであろう。また直子の側も、より強くならなければならない。エネルギーが弱すぎては伝えることができないからだ。これらの姿勢は『ねじまき鳥クロニクル』において明らかになるだろう。