村上春樹流の死と復活

『文學界』の2018年7月号と2019年8月号に掲載された村上春樹の短編『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』と『ウィズ・ザ・ビートルズ』について考察する。両者に共通しているのは死と復活というテーマである。

 全体の構造

どちらの短編も最初に課題が提示され、次に時間的な空白が置かれ、最後に最初の課題が鮮やかなイメージとなって復活するという構造になっている。

ポイントは中央に置かれた空白にある。「空白」の働きを説明しているのが、次に引用した『石のまくらに』の一節だ。「小ぶりな穴」というのがここで私が言っている空白を指している。

それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の嵐をうまく先に送りやってしまう。そして夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせない。

空白に埋め込まれた体験や言葉は、いずれ「地表に密やかに顔を出す」。具体的にはボサノヴァを演奏するバード、そしてLPを抱えた少女の姿のイメージとして復活するのである。それは人の心の中にのみ宿って永遠に生き続ける、確固とした像だ。現実に姿を見せるようなものではないが、それゆえにイメージとして、不変の生命を手にしている。

特に『ウィズ・ザ・ビートルズ』の場合はサヨコの死が犠牲となって働き、LPを抱えた少女の姿として昇華されて見事な復活を遂げている。この短編は、一度目に読んだ時はサヨコの自殺の方に印象が残るのだが、二度目に読んだ時はそれよりもレコードの少女の方にあざやかな印象が残るので、実 に不思議な物語だと思った。

 空白についての議論

「空白」についてさらに議論を重ねると、これは切断のイメージと近接している。『石のまくらに』の短歌にはわざわざスラッシュが明示されているが、このスラッシュは切断や斬首のイメージと結びついているのである。さらに空白は文章の改行とも繋がりがあると言える。『クリーム』には次のような一節がある。

「この世の中、なにかしら価値のあることで、手に入れるのがむずかしうないことなんかひとつもあるかい」。そして文章の改行でもするみたいに簡潔にひとつ咳払いをした。「けどな、時間をかけて手間を掛けて、そのむずかしいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや」

この箇所に注目してみると、実は短編の構造の縮図になっていることが分かる。まず課題である「手に入れることのむずかしい価値のあること」が提示され、次に空白である「改行」が置かれ、最後に「人生のクリーム」が与えられるのである。

また空白は犠牲や死とも近似している。『ウィズ・ザ・ビートルズ』ではサヨコの死がそれであり、『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』では、実は一つ前に置かれている『クリーム』の他者にかつがれた経験が丸ごと犠牲として機能しているのである。『石のまくらに』・『クリーム』・『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』の三編は、そのまま前の項で述べた全体構造に当てはまっているのだ。

  • 『石のまくらに』 → 課題
  • 『クリーム』 → 空白
  • 『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』 → 復活。イメージの完成

なお犠牲については『石のまくらに』にも明記されている。村上春樹は「復活には犠牲が必要だ」とあらかじめ宣言しているのである。

しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。

ちなみに次の引用は『クリーム』からで、これも死と復活というテーマに関係がある。

「しかしイエス・キリストに救いを求め、犯した罪を悔い改める人は、主によってその罪を許されます。地獄の業火を免れることができます。ですから神を信じてください。神を信じるものだけが、死後の救いを得るのです。そして永遠の生命を手にすることができるのです」