「分からない」から「分かる」へ、「分かる」から「分からない」へ

本記事では『ノルウェイの森』から『騎士団長殺し』までの、村上春樹の「分かる」ということへの姿勢の変化について語る。

『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』

『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』はセットの作品である。前者が意図せずに井戸に落ち込みはまりこんでしまう物語だとすると、後者は自らの意志で井戸に降りていく物語である。これについては以前別の記事で説明した

『ノルウェイの森』のポイントは、主人公が直子に突き放される点にある。主人公は緑とは筋道だった過程を通して次第に心を近づけていくのに対して、直子は不条理に主人公のことを突き放すのである。最初二人はセックスによる結合を体験するのだが、これはよく考えてみれば唐突であり、脈絡がない。また直子の自殺も唐突であり、そこには過程というものがない。この物語において主人公は、ただ不条理に痛みを突き付けられるだけの存在なのである。主人公にとって直子のことは一切が謎であり、「分からない」のだ。以前別記事で解説した生と死の包含構造や、緑と直子のダブルヒロイン構造、赤と緑の意味といった理路整然とした「構造」は、激しい痛みという負荷に耐えて、主人公という建造物が瓦解しないために用意された柱のようなものなのだ。

さて、これと比較して『ねじまき鳥』を考えると、一旦は結婚という形で主人公はヒロインに接近するのだが、結局はヒロインに出て行かれてしまうという点は、『ノルウェイ』に近似していると言える。しかし結末は異なっており、主人公はヒロインを取り戻すことに成功する。両者の違いはどこから生まれたのだろうか。

それはおそらく「分かる」という事から生まれたのだと僕は思っている。主人公は間宮中尉の歴史的な痛みを通じて、妻の過去の痛みを、痛み「だけ」を知ったのである。彼は事実というレベルにおいては妻の過去を知らない。その点は変えないままに、痛みだけを知ろうと努めたのである。妻は「明かりをともさないで」と言う。それは事実関係は明かさないで欲しいという切なる願いである。主人公はその願いを受け止めたまま、すなわち「分からない」まま、痛みだけを「分かる」という高度なことを遂行した。彼は女性の恥を尊重したのである。それゆえにヒロインが取り戻されたと考えると、筋道が立つのである。間宮中尉の過去は妻の過去の痛みの比喩だった。それは歴史的であり、個人の魂を著しく損なう類のものだったが、二人は上手くそこから回復することに成功する。この終盤のエピソードは、日本神話のイザナギ・イザナミの冥界下りの話のパロディである。

『東京奇譚集』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

『ねじまき鳥』では結局は事実レベルでは過去は判明しなかった。これに対して、事実レベルで過去が「分かる」のが『東京奇譚集』や『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。

『偶然の旅人』では姉が乳癌であることが発覚し、『日々移動する腎臓の形をした石』では女の職業が判明し、『品川猿』では母との関係性が明らかになる。そのような事実関係の解明が物語を結末へと導くのに大きな働きを成しているのが、『東京奇譚集』という短編集である。このような方向性が極まったのが『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』であると捉えると、作品の系譜が整理しやすいと思われる。

『騎士団長殺し』

前述のような「分かる」を経由して、ふたたび「分からない」に戻ってきたのが『騎士団長殺し』である。

以前『1Q84』の卵型の暗喩について解説したが、『騎士団長殺し』でも似たような技術が用いられている箇所がある。

それはやはり卵を温めるという形式のさまざまなヴァリエーションとなっているのだが、『1Q84』と少し違うのは、主人公が他者という卵を保護して温める役割を担っているという点だ。彼は自分自身の卵を温めるのではないのである。具体的に見ていくと次のような箇所が該当する。

  • 秋川笙子がブックカバーをつけて、その本の中身を秘密にする時、主人公もそれを了承して読み終わった時に教えてもらうことにする場面。
  • 娘の室を保護するために、津波の映像がテレビに映ったら両目を隠す。

『1Q84』においては卵型の暗喩でコミットしていくのは自分自身なのだが、『騎士団長』ではそれは他者なのである。ただし自分がコミットするのではなく、相手側の意思に任せている。あくまでも相手を育てるのは相手自身なのであって、主人公はその育てるという点にはコミットしていかないのである。彼は相手を保護する「覆い」になることだけに努める。覆いの中で何が行われているかについては関与しないのである。つまり「分からない」ままでよい。「分からない」まま、「信じる」だけでよいというのが『騎士団長』の主人公の姿勢なのである。室がDNA的に本当に自分の娘なのかを判明させようとしない点も、こうしたテーマと関わりがあると考えると納得できる。

また、このように見ていくと騎士団長の語尾である「あらない」の意味もおのずと解明されてくる。覆いの中には中身があるのかもしれないし、ないのかもしれない。中身から見て外側にいる主人公にとってはこれは不明であり、「ある」と「ない」の両方の状態にあると言える。それでよしとする主人公の姿勢が端的に表れているのが「あらない」なのである。この言葉には「ある」と「ない」の両方が含まれている。