影と鏡像7

今日は影と鏡像のタグをつけた自分の記事を読み直してみた。読み直して驚かされたのは、あまり論理的に書かれていないということである。論の進め方にかならず飛躍がある。

じつは今回の記事にも論理の飛躍がある。それはこういうことだ。我々の心には次のような機構がある。それはおのれと対するものすべてに自己を見出す力だ。言い換えると「目にするもの・出会うものすべてがもうひとりの自分である」と我々はいつも無意識で思っている、ということである。

この主張に根拠はない。いわゆるエビデンスは存在しない。僕がそう直観した、というだけである。僕は自分が正しく、自分に反対するすべての意見が間違っていることを確信している。

さて、左右について語る。左右はとても興味深い概念である。まず、左右は一体ではない。もし左右が一体であったらそれは見分けがつかなくなり、どちらが左とかどちらが右とかは言えなくなるであろう。つまり左右というのは初めから「我々は一体ではないですよ」という主張を含んだ概念なのである。

長机の一方の端が左で、もう一方が右であるとする。するとそうとらえた途端、一体であったはずの長机という物体にそれぞれ違った領土が生まれてくるのが分かるであろう。どこからどこまでが右端であり、どこからどこまでが左端と言えるのかどうかは瞭然とはしないが、ある程度までは右端と言え、ある程度までは左端と言えるのが分かると思う。すると右端でもないし左端でもない部分は何なのか、という疑問が湧いてくる。それが「中間地帯」なのである。このように右とか左には、かならず「中間」が付帯してくる。右のものと左のものの間には距離があるのである。

じつはある者が「目にするもの・出会うものすべてがもうひとりの自分である」と思う力をひとつのものに特別注ぎこんでいるとき、このような左右の関係性がそこには生まれている。たとえば自分が右であり、相手が左であるとする。すると両者の間には中間地帯が生じる。二人はその中間地帯を埋め立てずに、距離を置いたままで交信する。中間地帯は文字通り物理的なものであることもあれば精神的なものであるときもある。典型的には、じっさいに物理的な敷居があり、それを乗り越えて親密になっていくというのがあるだろう。ただし親密になったり、あるいは結合を体験したりしたあとも、中間地帯というものはなくならない。中間地帯はかならず必要である。それなくして左右関係は成立しない、ペアは成立し得ないのである。二人は距離を意識し、尊重し、それを適切にコントロールしていく意識を持たなければならない。そのような意識を倫理と呼ぶ。

それはなぜだろうか。

ここに「目にするもの・出会うものすべてがもうひとりの自分である」というのは単なる思い込みに過ぎない、という真実の悲哀があらわれてくる。相手は結局のところ相手自身なのだ。固有の人格を持った人間あるいは物体であり、自分ではないのである。相手は、じつは自分の「目にするもの・出会うものすべてがもうひとりの自分である」という精神の働きを感知し、そのような顔をつくって見せていたに過ぎない、というのが真実なのである。このような顔を「表の顔」と呼ぶ。一方で彼または彼女は、その「表」の部分に含まれない固有の顔を持っている。これが「裏の顔」である。『古事記』においては、裏の顔は自然の姿としてあらわれる。たとえばイザナミは蛆の湧いた屍の姿として、トヨタマビメは巨大な鮫の姿としてあらわれる。

以前に別の記事で書いたが、人は中間地帯を踏破して必要以上に相手に接近すると、そのような「裏の顔」を目撃することになる。これをやってしまうと左右関係は崩壊する。縁は切断され、もう修復はなされないのである。イザナギは大きな岩で死の世界と生の世界を切断し、封印をほどこす。あるいはトヨタマビメは海の世界と陸の世界が連続しないように堰き止める。

では中間地帯を破壊せず、保存したままで両者が交信するにはどうすればよいのだろうか。

それが交換である。持ち物を交換することもあれば歌を交換することもある。自分の持ち物を相手に渡して相手の一部となし、相手の持ち物をもらって自分の一部となすことである。こうすることで両者の差異を埋め立てていき、左右関係のバランスを取るのが「交換」という行為の目的であるととらえられる。

このような交換行為が極まっていくと、入れ替わりという現象が生じてくる。相手が自分になり、自分が相手になるのである。たとえばアマテラスはスサノオが高天の原に昇ってくる際、女性的な態度を捨てて、身なりも男性的になり、態度も男性的になる。このときスサノオは穏やかな態度を取っている。しかし持ち物を交換しておこなう「うけい」の勝負を経過すると、とたんにアマテラスは穏やかな女性的態度を取り始め、スサノオはむしろ男性的になって暴れ出すのである。「入れ替わり」は立ち位置の「交換」と見なしてもよいかもしれない。

以上が現時点における僕の左右関係の考察である。

なお「目にするもの・出会うものすべてがもうひとりの自分である」とみなす心の働きが弱まっていくと、無意識からの警告として「影」があらわれる。影の働きはすでに過去の記事で述べたのでここでくりかえすことはしないが、この記事に書かれた内容を念頭に入れつつ読み返すと、別の角度からの納得が得られるであろう。