ヱヴァンゲリヲン新劇場版を読み解く

これまで本ブログは二回に渡って『シン・エヴァンゲリオン』を読解してきた。本稿ではヱヴァンゲリヲン新劇場版を序から始めて最後まで読み解いていく。

エヴァンゲリオンは訳の分からない映画である。3作目のQから一体何がストーリー上問題になっているのかが分からなくなっていくのだ。この作品を読み解くにあたって重要なことは、ともかく最後の『シン・エヴァンゲリオン』の読解に全力をつぎ込むことである。これが理解できてからまた序から見直すと、連鎖的にすべてが了解できるのだ。

コツは、あらゆる登場人物、あらゆるエピソードを、次の二点のどちらか、あるいは両方に還元して読み解いていくことである。

  • シンジとゲンドウの関係性
  • シンジとアスカの関係性

序においては、それまで全く断絶していた父親と主人公の関係性がスタートを切る。この時点においては、主人公にとってエヴァに乗ることはまったく受け身のことであり、ただ父親の希望に沿っているだけのことである。シンジの側は父親との関係性に甘い希望を抱いており、父から褒められることを求めている。

しかしゲンドウとシンジの関係性はまったく荒廃している。それは水の一滴も見当たらない乾いた砂漠のようだ。だからそれを仲介する人物としてミサトが配置される。ミサトは女性だが、戦闘を指示する上司として、シンジの父親代理として機能する。ミサトはシンジが初戦を勝ったことを褒めるが、これはゲンドウが直接褒められるほどシンジとの関係性がまだ縮まっていないので、差し当たりの代理としてミサトが褒めていると受け取れる。またシンジはふとしたことから拗ねてみせ、ミサトの家に帰ろうとせずに放浪するが、この行為は、ゲンドウには通じない甘えた態度を、代理人であるミサトに対して行っているのだと解釈できる。ゲンドウとの関係はまったく不毛であり、そのような態度は一切通じないので、彼は代わりにミサトに対して反抗してみせるのだ。ただそれは親に構って欲しいことの裏返しであって、本物の反抗とは言えない。

次に第6使徒が襲来し、シンジは使徒からレーザー攻撃を受けて苦しみを味わうが、その最中に彼が「父さん、助けて」と叫ぶのは注目に値する。この時点ではシンジは心理的には父親の支配下にあり、まったくの子供である。その後に仕切り直しが行われ、ヤシマ作戦が開始されてエヴァと使徒は再び戦う。戦闘中にゲンドウは土壇場でパイロットの交代を言い出すのだが、ここでミサトはゲンドウに対して「自分の息子を信じろ」と言う。これはつまりシンジが言いたいことをミサトが代弁しているのである。彼女はゲンドウとシンジの仲介役なのだ。

レイは設定的にも物語的にも、母親ユイからの使者であると捉えることができる。レイはシンジに対して父親を信じろと主張する。レイもまたシンジとゲンドウの仲介を務める存在なのだ。それは破で食事会を企画する様子からも窺える。またレイは使徒のレーザー攻撃に対して身を呈してシンジを守るが、それは母親の献身の姿勢に近い。

以上のような経過の結果として、シンジとゲンドウの関係性は進展を見せる。破は母の墓前から話が始まるのだが、そこでシンジは父と対話するのだ。また、落下攻撃をしてくる使徒をアスカやレイと協力して倒した後、シンジはゲンドウから初めて褒められる。彼は父から褒められて精神的に成長する。もっともこの後にアスカがシンジのベッドに寝転がって、シンジが父親から褒められたことを嬉しそうに報告するのを聞くのは興味深い場面だ。このシーンはまるでアスカが「まだアンタは親にこだわっているのか。そんな調子ではまだまだ私を支えられるほど成長しているとは言えないわね」と暗に言っていると受け取れなくもない。

破の序盤では、加持に案内されて子供たちは日本海洋生態系保存研究機構という場所に連れられる。そこで彼らは青い海と、泳ぐ魚たちを目撃し、とても感動する。シンジは加持と対話する。潮風とは妙な匂いがするとシンジは言い、加持はそれは生き物が腐った匂いが混じっているんだと説明する。それもまた生命というものだと彼は言う。セカンドインパクトという大災害によって世界中の海が荒廃し、赤くなってしまった。いつか綺麗な海が取り戻される未来について彼は語る。このエピソードにはかなりの尺が割かれているので、何らかの物語上の意味があると考えて間違いない。

実は赤い海は、荒廃してしまった母性を意味しているのだ。母なる海は本来多くの生命を育てるものだったが、セカンドインパクトによって不毛な場所へと姿を変えてしまった。子供たちが魚や青い海を見て感動するのは、失われてしまった母性を垣間見て感動していると受け取れるのである。それは宝であり、いつの日か取り戻さなければならない目標なのだ。

そして赤い海はゲンドウとアスカの心象風景だと捉えるのが正解である。ゲンドウは妻を失ったために母性から離れてしまった。アスカは親からの愛情を存分に受け取れず、競争社会で、つまりエヴァに乗って優秀な成績を収めることでしか己を証明する術がない。そのような生き方には女性が本来持つべき母性を発展させる機会がなく、彼女はシンジやレイをもライバルだと考えて攻撃的な態度に出てしまう。

アスカはエヴァンゲリオンの正ヒロインである。彼女の魂は傷ついている。男勝りの攻撃的な性格はみずからの傷を守るための防御に過ぎない。彼女は異性からの優しさと包容力を必要としている。この基本的な性格は他の多くの女性の登場人物にも見られるものだ。加持はミサトに対してもっと余裕を持てとアドバイスするが、これは言い換えればミサトがアスカ的性格を持っていることを意味する。加持はシンジを農耕に誘うのだが、これが優しさや包容力、もっと言えば母性を育てる訓練なのだと思うと、シン・エヴァンゲリオンにも話が繋がっていき、理解が進むのである。

本稿の初めでシンジとゲンドウの関係性、およびシンジとアスカの関係性がエヴァンゲリオンの物語のポイントだと述べたが、これは言い換えると、エヴァンゲリオンの物語としてのゴールは、シンジとゲンドウが仲良くなること、シンジとアスカが仲良くなることだと言える。そして後者は、女性も戦いに参加せざるを得なくなったこの現代社会において、いかに男性が女性の傷ついた魂を癒すか、という課題に繋がっていると言えるのである。このような理解に立つと、アスカが乗った第三号機を倒すことをシンジが頑固に拒否することも、よく分かるのである。アスカを傷つけることは物語のゴールと真逆の行動なのだ。しかし父親の指示によってダミーシステムが初号機に適用され、シンジの乗ったエヴァはアスカを傷つけることになってしまう。ゲンドウはシンジに対して第三号機を「目標だ」と言い、「お前が倒せ」と迫る。

こうした対話によって親子の関係は後退していく。シンジはゲンドウに対してもうエヴァには乗らないと宣言する。

ゲンドウはここで初めてシンジに説教する。「また逃げ出すのか。自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない。シンジ、大人になれ」。この犠牲を支払って目標を達成するという考え方は、完全に父性原理に寄ったものである。ゲンドウの主張は最終作のシン・エヴァンゲリオンの物語とは反対を向いているので、シンジは拒絶する。ここにはシンジの成長が見て取れる。彼はクラスメートやアスカやレイ、ミサトと仲を深めていく中で、人間性を深め、父親との関係性だけに囚われない態度を身につけたのである。ラストになってミサトがシンジを応援するが、その際彼女は「行きなさいシンジくん。誰かのためじゃない。あなた自身の願いのために」と言う。シンジはそれまで父親に望まれてエヴァに乗っていたのが、破の最後は自分の望みでエヴァに乗るようになった訳だ。それは確かな成長への一歩だ。彼は自分の意志を確立させ、他人(ゲンドウ)と衝突しようともそれを貫くだけの父性を内側に打ち立てたのである。Qの最初ではシンジは自らエヴァに乗りたいと言い出すが、これは破での彼の成長がそのまま物語として引き継がれていることを意味する。エヴァに乗ってアスカを助けたいとシンジは発言している。

破で物語がエンディングを迎えていたら、エヴァンゲリオンはとても分かりやすいお話だったであろう。アスカが存在せず、レイが正ヒロインだったら、ここで終わっても良さそうである。そうならない所がエヴァンゲリオンの複雑な所であり、訳の分からない点だ。よく反省してみると実はこの時点でゲンドウとの関係性もアスカとの関係性もほとんど解決されていない。

破のラストでシンジはレイを助ける。正ヒロインであるアスカを助けずにレイを助けるのである。ところがレイは母であるユイの代理的な存在なので、異性としての結合は不可能である。それは近親相姦に当たるのでタブーだし、レイはアスカと課題を同じくしていないので、実はメインテーマに沿った行動になっていないのである。この場面では「翼をください」が流れるので一見感動的に思えるのだが、実はこの選曲は皮肉である。事実、最後の最後にゲンドウたちは事態が計画通りであることを言う。シンジは父親に反抗して自由を得たような気持ちになるのだが、実際はまったくそうではないという話運びなのだ。エヴァンゲリオンで求められている父親との関係性の解決の仕方は、父に反逆して力で倒すというものではないと受け取れるのである。

次にQが来る。この映画は訳が分からない。最初から最後まで意味不明な映画である。いつの間にか十四年が経過しているし、ミサトたちとネルフは対立しているし、サードインパクトで世界が崩壊したのはシンジのせいだとひたすら責められるので、視聴者は最初から最後まで混乱し続けることになる。

Qへの理解度が高い人はエヴァンゲリオンの理解度が高い人である。実はこの映画はたった一言で要約することができる。

Qとは、アスカがシンジに対して怒り続けるだけの映画である。その一つだけを、ただそれだけを95分まるまる全部使って表現しているのだ。この映画ではゲンドウの話はほとんど出てこない。

アスカの女性としての怒りは、男性であるシンジから見るとまったく不条理に思える。出所が不明だし、火のように強烈なので、手に負えない。ともかくシンジがシンジである限り怒り続けるというような、存在の根本からの否定のように思われるのだ。一方アスカから見ると、シンジは自分の短所にまったく気づいておらず、その鈍感さが癪に触って仕方がない。自分はこんなにも苦しんでいるのに、なぜお前は平然としているのか。私の苦しみに対して理解を示さないどころか、苦しみがあることを認識すらしていないではないか。アスカは実はそう言いたいのだが、言語化することができない。それが魂の苦しみの難しさである。彼女は言葉にできない痛みを、言葉にしないまま異性のパートナーに理解してほしい。そうした理解の上に立った優しさが少しでもあれば自分は救われるのだがと彼女は思っている。Qという映画はこのようなアスカの怒りを十全に表現している。Qという映画の訳の分からなさは、必然的なものなのだ。シンジはそれをぶつけられて、一度地獄の底まで落ちなければならない。

サードインパクトによって海だけでなく大地までもが赤く染まり不毛な場所になってしまったのは、アスカの心象風景がさらに荒廃してしまったことを意味していると受け取れる。強調されるシンジの罪とは、分かりやすく翻訳すると、異性の魂の苦しみを理解しようとしない彼の姿勢のことだ。シンジは呆れるほど鈍感なので、一体何を罪と指摘されているのかまったく分からない。そのような混乱は視聴者にも共有されるように描かれている。

最終作のシン・エヴァンゲリオンでは落ちるところまで落ちたシンジが再生する過程が描かれる。そのような回復の中で、レイの協力を得て、つまり母親の婉曲的な支援を受けて、シンジは母性を獲得する。ここら辺は1回目2回目の記事で説明したので細かくは繰り返さないが、シンジはゲンドウと和解するという形で彼を倒す。力づくでやっつけるという解決の仕方ではなく、それを上回る解決の方法が求められたのだ。

だがアスカとシンジは結ばれない。あるべき理想としては、シンジはアスカを救うべきである。しかしそのテーマは今回は庵野監督の手に余ったという訳だろう。脇役であるケンスケにアスカは任せられ、アスカの魂が癒される過程には尺はあまり割かれない。

以上の議論から振り返ると、最初に課題された二つのテーマの内、ゲンドウとの関係性は100%解決され、アスカとの関係性は50%解決された、という所だろうか。異性というテーマは今後の作品に期待することにしたい。