『ダンケルク』を観る

クリストファー・ノーランの『ダンケルク』を観た。ともかく、終始誰かから何かを貰いっぱなしという映画だった。主に戦地にいる兵士たちの視点で物語が進んでいくのだが、彼らは死んだ兵士から靴を貰い、水筒を同僚の兵士に分けてもらい、撤退する船では温かい紅茶やパンを手渡しで受け取り、民間人から私有の船を出してもらってそのスペースに座らせてもらう。またスピットファイアに撤退を助けてもらった上にそのパイロットには代わりの犠牲として敵軍の捕虜になってもらう。そして命からがらイギリスにたどり着くと、兵士の一人であるトミー二等兵はそこで目の見えない老人から毛布を与えられることになる。老人は目が見えないので、トミーの顔に手でさわって、それを確かめた。帰りの列車の中でトミーは子供から新聞をもらう。そこには英首相が撤退を称える演説が載っていた。トミーは、敗北した兵士として母国の民間人から罵られるに違いないと予期していたのだが、むしろ熱い歓迎を受けることになるのである。

徹頭徹尾、人から何かを恵んでもらう。それも犠牲の上に成り立つものを受け取るというお話だった。このような物語の軸を支えているのは兵士たちの疲れきった姿である。トミー二等兵やその周囲の兵士たちの疲弊した様子、恐怖、沢山の死、早く帰りたいという気持ちが描かれることによって犠牲というものの正当性が保障される。そのため物語が成立するのである。

この映画を後から振り返ったとき、物を受け取るというのはこういう事なんだなと非常に実感させられた。よくよく思い出してみると、兵士たちは特に感謝の念を表してはいなかった。安堵の表情を浮かべていたのは間違いないが、与えた者への感謝という気持ちはない。彼らは打ちのめされて、ひたすら空っぽになっていたのだろう。受け取るとは、そのような大きな穴を埋めたてるだけの行為に過ぎない。よく通る道に深い穴が開いていたので、土砂を持ってきて埋め立てなければならなかった。そういった物理的な出来事にも等しいものだ。

だが人の心にはバランス感覚というものがあり、他者から施しを受けとりすぎると、罪悪感が生じるようなメカニズムになっている。その吐露がつまりトミーの民間人から罵られるのではないかという予測なのだが、この物語はそれすらも赦し、肯定していく。

劇というよりは、夢を見ているような感じだった。すべての場面はリズム良く、映像が連続的に流れていった。ストーリーは複数の線に別れて並行して進んでいくのだが、それらはバラバラになっているようでありながら、異なる二つの溺れているシーンが連結されて別のストーリーラインに移っていくところに、脈絡のない、しかし説得力のある夢の連想力を感じた。常に鳴り続ける不吉な低音が、それらバラバラの話をつなぎ合わせているようでもあった。

やはり現代の人間は、犠牲というものに興味があるのだなと思った。それも犠牲を良いものとして素直に肯定することに今は力点が置かれている。そういえば『騎士団長殺し』もそういう小説だった。