冒頭に置かれた矛盾

冒頭に矛盾した表現を置いている小説は数多い。それらはしばしば小説のテーマと関わりがあり、新しい作品世界を立ち上げるための起爆力にもなっている。次にひとつ例を挙げる。

 長いこと私は早めに寝むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと目が覚める。
 
(マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』)

解説すると、『失われた時を求めて』は語り手の受ける感覚や印象に忠実にしたがって綴られた作品であるから、意識のない睡眠の間には何も文章が書かれず、その前後がすなおに連結される。そして目が覚めたあとも眠りに落ちる前の意識が持続し、そのため「眠らなくては」と思い続けている、という訳である。これは単なる表層の論理だけを見て取ると、矛盾した表現になっている。すでに眠っていたのに「眠らなくては」と思うのはおかしいからだ。しかし作品世界が持つ独自のルールと照らし合わせて読むかぎりにおいては、まったく矛盾にならないのである。むしろ矛盾によってそのようなルールが浮かび上がってきているとさえ言えるだろう。

ドン・キホーテの前篇の最初の章には次のような記述がある。主人公の食事の献立だ。

羊肉よりは牛肉の多く入った煮込み、たいていの夜に出される挽き肉の玉ねぎあえ、金曜日のレンズ豆、土曜日の塩豚と卵のいためもの、そして日曜日に添えられる子鳩といったところが通常の食事で、彼の実入りの四分の三はこれで消えた。
 
(セルバンテス著 牛島信明訳『ドン・キホーテ 前篇(一)』)

荻内勝之の『ドン・キホーテの食卓』という本によると、金曜日はイスラム教、土曜日はユダヤ教、日曜日はキリスト教の安息日で、食事の献立はそれぞれの宗教に対応した内容らしい。

 スペインには多くのユダヤ教徒やイスラム教徒がいた。全土がキリスト教圏になってからそれらの人々のある者は追放され、ある者は自分の意志でスペインを出たが、キリスト教に改宗してスペインに残留した者のほうが多かった。時代を代表するほど敬虔で活動的な信者が改宗者やその子孫である例も少なくない。
  しかし、その血筋はスペインの地に容易に溶けこまなかった。溶け込んだかに思われた血も国家や世間の手で執拗に掘り返されて、モリスコ、あるいは改宗者の烙印を押された。
 
(荻内勝之著 『ドン・キホーテの食卓』)

ここで重要なのは、ドン・キホーテの素性が曖昧にされているということだ。複数の異なる方向性が同時に示されており、それらは矛盾している。そしてこのことはドン・キホーテという本に含まれている「差別」というテーマと関連がある。子供に羊の番をさせて搾取する農夫、ガレー船の漕手として酷使されるために護送されている最中の囚人など、さまざまな差別の場面がドン・キホーテには登場してくる。最終的にこのテーマは、ドン・キホーテのようなユーモアに満ち溢れた小説が一級の文学として認められず、軽蔑されているという事態につながっていく。この事は特に『後篇』で強調される。作中で執拗に騎士道物語のパロディが繰り返されることにはこのような背景がある。

最後の例として『1Q84』の初めの二行を挙げる。

 タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。
 
(村上春樹著『1Q84』)

ぱっと見では、論理的な矛盾はここには何もない。少なくとも最初に読んだ時にそのような印象を受ける人はいないだろう。だが作品全体を貫いている箱の暗喩について理解が進んでから冒頭を読み直すと、また違った感想を抱くのではないだろうか。箱の暗喩については過去の記事に詳しい。(, )

解説すると、この文章における矛盾とは、“内”が閉じられた箱でありながらもそこへ“外”から啓示と言うべきものが送り届けられたということだ。タクシーの中は居心地がよく、そこに留まっていれば安全である。確かにドアも窓ガラスもあり、外からは遮断されている。しかしそのような密室性を乗り越えて、奇跡的に優れた音楽が届けられる。それは外から内へと入り込んでくる。『1Q84』の箱の暗喩の構造が、この矛盾を意味あるものに強めている。上記の一文が小説の初めに置かれているのは構造から言って理に適ったことなのだ。ちなみに次の文が同じ章に出てくるので、ここまでの論理展開が正しいことが確認できる。

なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。

まとめると、この記事で挙げてきた例は、いずれも矛盾によって言葉の持つ表層的な意味を破壊し独自のルールを打ち立てているものだ。それは言わば爆発や、卵が割れる瞬間にも喩えられるだろう。破壊はまさに創造のための第一歩なのだ。

最後に付言しておくと、これらの記述が予言的であるということも見逃せないポイントだろう。作品の持つ独自の性格は、やはり奥まで読み進めていかなければ開示されない。そのような独自性が最初に持ち出されるのが「冒頭に置かれた矛盾」であるから、それは作品全体を予言するような位置につくことになる。すべてを明かす訳ではないが確実に一部が含まれているのである。

物語はその冒頭において後に起こるさまざまなことを予言しておかなければならない。そうでなければ書き手自身が道を見失ってしまうことだろう。『百年の孤独』では、のちに大佐が銃殺隊の前に立つことが冒頭で予言されている。形式的には回想だが、よくよく物語の流れの大筋を反省してみると、実は予言であると捉えた方が正確であると分かる。『失われた時を求めて』では語り手が過去に住んだいくつもの部屋が描写され、『風と共に去りぬ』ではパーティの場面において主人公がのちに結婚することになる異性たちが登場している。