コスタリカ307

よいブログ。

「た」の多い小説

 「私」から離れる文体

1Q84』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は三人称で書かれている。その文末は「た」または清音で結ばれるように配慮されており、濁音で終わるのはその方が日本語として自然である時か、または作者が意図的にその文を強調したい時に限られている。

 彼はその時期を夢遊病者として、あるいは自分が死んでいることにまだ気づいていない死者として生きた。日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった。
 死について考えないときは、まったく何についても考えなかった。何についても考えないことは、さしてむずかしいことではなかった。新聞も読まず、音楽も聴かず、性欲さえ感じなかった。世間で起こっていることは、彼にとって何の意味も持たなかった。部屋に閉じこもっているのに疲れると、外に出てあてもなく近所を散歩した。あるいは駅に行ってベンチに座り、電車の発着をいつまでも眺めた。

村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)

一読して頂ければ分かるように、上記の文は全て「た」で終わっている。

ところで三人称とは何であろうか。三人称とは一人称ではないということ、すなわち文章の意味するところが「私」や「自分」から離れている、ということだ。

また『多崎つくる』という小説が主に語っているのは、主人公が過去に起きた事件を振り返るということだ。そこで我々は「過去」ということについても考えてみる。

既に起きてしまったことはもはや変えられない。過去は「私」の力の及ばないところにある。その意味において過去を表している文章もまた、「私」から遠い所にあると言って良いように思う。

以上のような文体で小説が書かれていると、読者は自分の考えや意思とは無関係に周囲の物事が進行していくという印象を受けるようになる。濁音を避けているのは、自分の感情というものが消滅しているように感じられるという効果を補強するものだろう。「濁」音は水を濁すことであり、湖に石を投じることだ。それは心が揺れ動くということに繋がっていく。しかし末尾を清音で結べばそれを避けることができ、水は透明なまま保たれる。
 さらに「た」が繰り返し現れることも無視できない。同じ音が繰り返されることによって、人は夢の中を歩いているような心地がしてくる。現実感というものが薄れてくるのである。

ここまでの議論をまとめると、『多崎つくる』の文体の特徴は、自分自身の心の動きから離れようとしている点にあると言える。正しくは、人は死に接近するほど傷つくと、もはや自分の心の在り方さえそのような突き放した語り方しかできなくなってしまう、ということだと思われる。

 濁音の効果

このような文体によって長い前フリを置いてから、作家は終盤でここぞとばかりに「だ」を連発する。そこが強調したい箇所だからだ。

 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

これは、効く。なぜならほとんどの読者は自分が「た」で終わる文章を読まされてきたということに気づいていないからだ。このように無意識の側から攻め立てられると、読者というものはあっさり陥落するのである。

さて、濁音によって心の深い所を揺り動かすことに成功したつくるは、胸の痛みを覚えるようになる。それはおそらく今まで封じこめてきた感情であり、心の底から何かを欲する気持ちだろう。意欲を持てば、傷つくリスクは避けられない。だから彼はかつて意欲というものを深い所に押し込めて、長いあいだ見てこないようにしてきたのだが、それが今になってよみがえってきたのだ。

 舗装道路に出たところで路肩に車を停め、エンジンを切り、ステアリングにもたれて目を閉じた。心臓の調子を整えるために、時間をかけてゆっくりと深呼吸をしなくてはならなかった。そうしているうちに、身体の中心近くに冷たく硬いものが――年間を通して溶けることのない厳しい凍土の芯のようなものが――あることにふと気づいた。それが胸の痛みと息苦しさを生み出しているのだ。自分の中にそんなものが存在することを、それまで彼は知らなかった。
 でもそれは正しい胸の痛みであり、正しい息苦しさだった。それは彼がしっかり感じなくてはならないものなのだ。その冷ややかな芯を、自分はこれから少しずつ溶かしていかなくてはならない。時間はかかるかもしれない。しかしそれが彼のやらなくてはならないことだった。

このようにして主人公は、ふたたび自分自身の心に寄り添うことができるようになった。

 結び

この記事では、村上春樹がどのように文末というものを考えて小説を書いているかについて論じてみた。

ところで多崎つくるの苗字は、「田崎」ではなく「多崎」である。これはおそらく小説の文体と関係している。「多」という字は、分解するとカタカナの「タ」二文字となる。つまり小説の題名は「タ」が「多い」小説であることを示唆しているのだ。

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