コスタリカ307

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名前について

 自己の名前

自分の名前が好きになれないという人は少なくないと思われる。
1Q84』の主人公・青豆もまた、自分の名字に馴染むことができない者の一人である。

こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今とは違うかたちをとっていたかもしれない。たとえば佐藤だとか、田中だとか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは。

村上春樹著『1Q84』)

だが作中において青豆は、最初から最後まで「青豆」と表記され続ける。なんにせよ彼女はそれが自分の顔であることを、最後まで引き受けるのだ。

ところでカーヴァーの短編小説においては同様の嫌悪が、友人に向かって自分のことをイニシャルで呼ぶように頼むという形で表現されている。

JPの本名はジョー・ペニー、でも本人はJPって呼んでくれよと言う。
(中略)
JPは頭を振った。「でもジャック・ロンドンなんてすごい名前だな」と彼は言う。「俺もそんな名前がほしかったよ。今みたいなのじゃなくってさ。」

レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳『ぼくが電話をかけている場所』)

JPは自分の名前を避けたいのである。この小説の舞台はアルコール依存症の人間を更生するための施設なのだが、そこにいる人の鬱積した自己嫌悪がこのような形で表されていると見ると、事態が了解されるだろう。

旧約聖書にいたっては、名前はさらにその姿を隠す。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

(『旧約聖書・申命記』 新共同訳)

単純に考えれば名前がイニシャルでさえなくなりほとんど消失しまっているのだから、自己嫌悪の度合いはJPの場合よりも強まっていそうなものである。しかし旧約の神は自己嫌悪などしないので、これは不思議なことだ、となる。

実はこの場合は、自己嫌悪は神から預言者の方に移されているのである。「イスラエルの人々」はモーセとアロンに向かって繰り返し不平を訴える。モーセは神と民のあいだをとりもつ仲介者として、苦しまなければならない。モーセは最後に山の上に登って約束の地すべてを見渡すのだが、自分の足で踏むことなく、主の命令によって死んでしまう。

 『ゲド戦記』を読む

以上のように名前と自己嫌悪の関係性について考えていくと、私の頭には自然と『ゲド戦記』が思い浮かんでくる。ここから先は『ゲド戦記』の詳細について言及する。いわゆるネタバレがあるので、読者の方は注意いただきたい。

さて、主人公であるゲドは自らの傲慢な振る舞いによって、「影」と呼ばれる危険な存在を召喚してしまう。ゲドは優秀な魔法使いであり、竜さえも一人で追い払うことができるほどの力量がある。膨大な知識と魔法使いとしての知恵を持つ彼は、竜の名前を推測して言い当てることで優位に立つことができた。しかしそのゲドも影には手も足も出ない。影の力はあまりにも強大であり、ゲドを攻撃して追い詰めていく。あわや命を失うという所でゲドは逃げ切って、師匠のもとへと帰還する。

そこで彼は師から、影にも名前があるはずだとアドバイスを受ける。それを見つけ出せば、おそらく影を征することができるのだ。ゲドは影を求めて旅に出る。今まで追いかけられてばかりだったところを、今度は逆にこちらから追いかけてやろうと考える訳だ。しかしそれでも影は捕まらない。どうやら追いかけられても追いかけても、事態は進展しないようである。そこで彼は反省し、それまでとは次元の異なったアプローチを開始する。これまで誰も行ったことのないはるかな東まで船を進め、海の上で影の出現を待ち受けるのである。

世界の果ての海を何日もさまよいつづけ、ついにゲドは影のいる島を見つける。ゲドはその島に向かってオールを漕ぎながら、「後ろ向き」のまま何度も肩越しに振り返り「前」を見て進んでいく。この運動はゲドの影と対峙する姿勢をよく表している。前に行っても後ろに行っても自分の影には永遠に追いつけないと考えたゲドは、「前」と「後ろ」という反対のものを矛盾なく統合した状態で、問題に取り組むことにした。

そして上陸したゲドはついに影と出会い、その名を呼ぶことに成功する。

 一瞬ののち、太古の静寂を破って、ゲドが大声で、はっきりと影の名を語った。時を同じくして、影もまた、唇も舌もないというのに、まったく同じ名を語った。
 「ゲド!」
 ふたつの声はひとつだった。
 ゲドは杖をとりおとして、両手をさしのべ、自分に向かってのびてきた己の影を、その黒い分身をしかと抱きしめた。光と闇とは出会い、溶け合って、ひとつになった。

アーシュラ・K・ル=グウィン著 清水真砂子訳『影との戦い』)

このシーンは深い自己嫌悪との和解とも受け取れる。ル・グウィンは人類が長い歴史の間にとほうもない高さまで積み上げてきてしまった怒りや憎しみといったものを、我々と和解させる道筋についてひとつの可能性を示したのかもしれない。

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