コスタリカ307

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『ノルウェイの森』を読む 3

次の記事からの続きとなっている。

riktoh.hatenablog.com

 言いたいことを言葉に出来ないというテーマ

最後に「言いたいことを言葉に出来ない」というテーマを取り上げる。この主題は上巻P45で初めて直子の口を通して宣言される。

「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

次はP62から。

 たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。

「彼女は僕に何かを伝えたがっている」という部分は大事である。それは伝えられることによって初めて形を獲得するたぐいのものなのだ。上手な受け取り手・聞き手がいて初めて話し手もその正体を把握し、伝えることができるようになる。話し手だけが存在していても上手く行かないのである。

しかしこの説明では分かりにくいであろうから、実際に成功している例を見てみよう。そうすれば腑に落ちてくる。実は緑は「うまくしゃべることができない」ことをどうにかして上手く伝える天才である。

上巻の半ばで主人公は初めて小林書店、つまり緑の家に行き、そこで昼食をごちそうしてもらう。そこで緑は父親について話すときに、本当のことを言うのを避け、ウルグァイに行っていると「僕」に言う。事実としては、父親は病院で死に瀕している。そして緑はその看病で疲れているのである。この箇所をよく読むと、緑は家族について話すときに父親の話を最後に持っていき、かつ間を置いていることが分かる。

「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど」
 緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。
「そう」
「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」
「ウルグァイ?」と僕はびっくりして言った。

つまり緑は父の死が目前にせまっているのが辛く、はっきりと言葉にしにくいのである。直子であれば、ここで何も言うことができずに静止してしまうだろう。しかし緑はわがままを言うこと、相手に嘘をついて振り回すことによって己の鬱憤を発散しつつ、真実への第一歩を踏み出していくのである。なるほど、ウルグァイに行ったというのは嘘であろう。しかし簡単に手が届かないところに行ったという点においてはそれもまた真実なのだ。緑は聞き手である「僕」がそのような嘘に付き合ってくれるからこそ、初めて「うまくしゃべることができない」ことを伝えられるのだ。このようなステップを踏まずに緑が主人公を病院に連れていくことは、おそらくなかったと思われる。病院で昼食を食べているあいだ、緑は看病の苦労を主人公に率直に吐露する。長いステップを通過して、ようやく緑はそのような苦しみを主人公に伝えることに成功するのである。

さて、昼食のあと緑と「僕」は火事をながめながら歌を歌いビールを飲む。そこでは母が死んだときの気持ちが緑の口から語られる。緑は悲しくなかった。彼女の心の奥ではなにかが複雑に絡まり合っていて、素直に悲しめないのである。注目すべきなのはその時の煙の描写だ。

「(略) べつに嬉しかないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」
 なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。

緑は涙一滴「出ない」。しかしすぐ目の前では煙がいっぱい「出てくる」。この対応性から、どうやら煙の描写に緑の心情が表れているらしいと分かる。緑は何を言うためにこんなにも饒舌にしゃべりつづけているのだろう。「いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろう」? その疑問はつづく緑の言葉によって解かれることになる。母も父も自分に充分なだけの愛情を注いでくれなかったという不満が、自然な感情の発露を妨げているらしいと分かってくるのだ。ところでこの小説は一人称で書かれており、この煙の描写も当然緑の話の聞き手である僕によるものだ。このことについて考えてみると、相手が「うまくしゃべる」ためには、聞き手の姿勢が重要であるということが明らかになってくるのではないだろうか。

主人公は相手が黙っているときでも、上手に言葉を引き出すことができる。緑の父親は病気のために喋ることも難しく、手術のために頭痛がして気力もない。何も食べようとしない。「僕」はそういう人を前に、自分の生活について話を始める。つまり、目の前の事態とは何の関係もない話をする。曲がったものを直すアイロンがけや、複雑にこんがらかった状況を整理するデウス・エクス・マキナについて喋る。そしておいしそうにきゅうりを食べる。それがきっかけで緑の父にも食欲がわき、きゅうりを食べるのである。そして主人公に緑のことを託そうとする。

以上の議論から、物語が緑の側にあるときは、難しいことを伝達すること・受け取ることが上手く行くらしいと分かる。しかし直子においてはそうではない。

直子は最後まで「うまくしゃべる」ことができないままその生涯を終える。読者の中には「何だかよく分からない話だった」という感想を抱く人も少なくないだろう。『ノルウェイの森』はそういうことを意図して作られた物語なのである。分からないまま相手が去ってしまうという話なのだ。残された側はただ苦しむしかない。鶴になった妻が逃げていく話や、月に行ってしまったかぐや姫の話と同じである。

今後、「僕」にはより根源的な「聞く」姿勢が求められるであろう。その姿勢は『1Q84』において明らかになる。

また直子の側も、より強くならなければならない。エネルギーが弱すぎては伝えることができないからだ。『海辺のカフカ』や『1Q84』においてその在り方は明らかになる。

なお類似したテーマを河合隼雄岩波現代文庫の『定本 昔話と日本人の心』で扱っている。あまりにも簡単に男と女が結合してしまうときは、それは悲劇的な結末を迎えやすい。それを乗り越えるためには、女性の側が「意志する女性」に変貌しなければならない。この結論はほとんど『1Q84』にあてはまっているように私には思われる。