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『ノルウェイの森』を読む 2

次の記事からの続きとなっている。 riktoh.hatenablog.com

 生と死の包含関係

あるものが別のものを内に含むという構造が所々で顔を見せるが、これは本作を読み解く鍵となっている。このような包含関係には二種類のものがある。一つは生が死を含む、あるいは死が生を含むといった構造をしており、もう一つは庇護を意味している。重きが置かれているのは前者の方だ。

それでは重要なエピソードからさらっていこう。

まず、作品の冒頭で直子の口から不吉な井戸の存在が語られる。自分たちが今いる草原のどこかに危険な井戸が含まれており、その穴に落ち込んでしまった人は二度と這い上がれず、少しずつ弱っていって死んでしまう。この話には読むべきポイントが詰まっている。ひとつには、包含関係が語られているということがある。井戸が生者を飲み込み、死に至らしめる。よく読むと数ページ前に「まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。」とあるので、「緑が赤を含む」という構造の予兆が語られていると分かる。

また直子自身の口から死の予感が語られており、これが作品全体の方向性を冒頭で決定している。似たような挿話として「僕」が寮の屋上で螢を放すというのがある。瓶は直子の肉体、螢が魂を指している。いずれ直子は死んで魂が体から離れていくのである。

 瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。(略)
 螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
 (略)
 螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
 僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。

上記はすべて生-死の包含関係に分類される。この種の包含関係の例は上巻P54にも見つかる。「ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。」 そして忘れてはいけないのは、やはり次の一文だろう。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

話を井戸の方に戻そう。さて、そのような死の予感を語る直子に対して、主人公は「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」と呼びかける。包含関係を用いて彼は直子を守ろうとするのである。このことが分かると、後に登場する類型の表現も理解される。上巻のP279において、急な坂道をレイコと直子と主人公が登っていく様子がえがかれているが、このとき彼らは弱い存在である直子を真ん中に置いている。そしてその背中を見守ることができる最後尾という位置に、主人公はついているのだ。もっと分かりやすい場面はその少し前のP233で、「僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。」とある。また「僕」は緑に対して「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」と言う。これらが庇護の包含関係にあたる。

井戸のエピソードについて最後に指摘すべきポイントは、最終的に主人公がこのような「井戸」にはまりこんでしまうということだ。彼はキズキと直子を通じて死の世界へと踏み込んでいくのだが、長くそこに留まりすぎた結果として、抜け出せなくなってしまう。つまり周囲が現実の世界=生=緑、そして中心が異界=死=赤という構図の中で、「僕」はその中心にはまってしまい、脱出が不可能な状態におちいってしまうのである。以上の了解があると小説の最後の一文がよく理解される。「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」 どこでもない場所とは赤色の場所、異界を指している。

ところで主人公は小説の序盤において「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」と言っている。これは緑が周縁で赤が中心という構図において、主人公は緑の側にいながらも赤い場所からの信号を、すなわち異界からのメッセージを受け取り続けていた、ということを意味している。やがて彼は直子を介して異界へと移動する。すなわち周縁から中心へ移ったのである。それは彼としては一時的な移動のつもりだったのだが、とうとう抜け出せなくなってしまった。それが最後の一文に表現されていると捉えると、論理が一貫する。次の引用箇所は、主人公が死の世界からなかなか現実に帰還できない様子を示している。下巻の前半、阿美寮から帰ってきた直後のところである。

 店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものをほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲーム・センターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ・ゲームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」をかけてくれないかと言った。(略)
 そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。

以上の議論を単純に図示してみた。

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ところで、生と死の包含関係についての「僕」の考察は直子の死後にさらなる発展を見せる。死の世界へと移った直子を追って、主人公もまた「奇妙な場所」へと行き着く。

そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所とは死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。

つまり緑のなかの赤には、さらにその内側に緑が含まれていたのである。マトリョーシカ人形のようなものだろうか。しかしこの卓見はそこで途絶えてしまう。彼は力尽きてしまい、そこから先へと進めない。

 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。

主人公が中心の赤、すなわち異界から脱出して緑に戻るためには、『ねじまき鳥クロニクル』を待たなければならない。『ノルウェイの森』では主人公は意図せずに井戸に落ちてしまいそこから抜け出せなくなるのに対して、『ねじまき鳥クロニクル』では主人公はむしろ自らの意志によって井戸の底に入る。そこで彼は異界へと移動し、ヒロインを助けてから生還することに成功するのだ。ただし、そこではヒロインの側にも強さと意志、そして犠牲を払う覚悟が要求されることになる。なお『海辺のカフカ』も似たような構図になっているのだが、この場合はヒロインは一つ前の世代に属しており、記憶の継承というテーマが強調されている。

色々述べてきたが、この包含関係も色と同様に曖昧なところがあり、常に成り立っているわけではないように思われる。やはり『ノルウェイ』は少しばかりルーズなのである。

ちなみに文庫版の表紙は、上巻は赤が緑を包んでおり、下巻では緑が赤を包んでいるのだが、これは読者に包含関係を示唆するヒントとみなせるだろう。

次の記事に続く。

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