コスタリカ307

よいブログ。

『海辺のカフカ』の読解メモ・下巻

別記事からの続き。

  • P6 「星野青年」。
  • P61 ナカタさんと星野青年も図書館に行き着く。主人公の泊まっている図書館とは別だが、図書館であることに変わりはない。そこで彼らは調べ物をする。
  • P66 入り口の石を探していると、カーネル・サンダースが星野青年の前に現れて、女の子を紹介する。石をどかして別世界の入り口に進んでいくにあたって、性欲が障害として立ちふさがっているということを、このシーケンスは示唆している。まずは性欲をどかさなければならない。ナカタさんは自己を失っており、性欲がない。そこに若さを持った星野青年が助けとなってペアを組み、「性欲の解消」という必要不可欠な行為に参与する。
  • P73 27章。2時47分。時刻のなかに章番号の数字がすべて含まれている。
  • P84 「課題」。すでに別記事で解説済み
  • P91 星野青年は長い距離を歩く。石を手に入れるためには、体力を消耗し、性欲を解消しなければならない。そうした様々なエネルギーを使い切ることで、はじめて我々は虚心坦懐に自分の内なる世界と向かい合えるようになる。
  • P109 幽霊の佐伯さんとカフカ少年はセックスをする。「そのせいで現実と夢が混じりあってしまったのだ。」という一文。上巻P43の「現実のありかたと心のありかたを区別することもまた難しい。」と同じことを意味している。
  • P114 「石のように硬直した」ペニス。入り口の石との関連性。
  • P114 「君にはなにかを選ぶことができない。」 星野青年はみずからの性欲を自分の意志で行使するが、カフカ少年は完全に受け身であり、性欲を消費させられる。彼は行為の最中に没我的になれない。乗り気になれないという意味ではなく、自己が分裂している。性欲に乗っかって快楽を味わっている自分と、それを突き放して見ている自分とに分かたれている。
  • P115,116 「僕の耳に届くのはかすかな床の軋みと、休みなく吹きつづける風の音だけだ。吐息をつく部屋と、そっと身を震わせるガラス窓。それだけが僕の背後に控えているコロスだ。」「そこにある窓は僕の心の窓であり、そこにあるドアは僕の心のドアだ。」 やはりここでも、比喩が現実と重なっていることが強調されている。心で起こっていることは、現実での出来事と同じ重要性があるのだ。だからこそ、心にアクセスし、課題を解決することが可能になるのだ。より心と現実の二つの世界をつなぎ合わせなければならない。このシーンでもだいぶ近づいているが、まだそれでは足りない。入り口の石をどかす必要がある。
  • P144 「仮説」。「なにもかもが二重の意味をもっているみたいに見えるんです」。メタファ―の説明。「ゼロ・パーセントか百パーセントか、そのどちらかもしれない」と佐伯さんは答える。主人公が「そのどちらなのか、あなたにはわかっている」と聞き、佐伯さんはそれに頷く。しかし佐伯さんは答えを言わない。このやり取りは重要で、P470の佐伯さんとの対話につながっていく。
  • P145 特別な音楽を見つけた「とても遠くにある古い部屋」。心の奥の部屋。石を除かない限り、入っていけない場所である。
  • P146 大島さんの「スペイン戦争に参加するんだ」。後のシーケンスの予告。すでに何十年も前に終わってしまった過去の悲惨な出来事に、現代の自分もコミットしていきたいという気持ちの表れ。佐伯さんの過去の恋にコミットしていきたいというカフカ少年による意思表明の、前フリとなっている。
  • P153 主人公の一人称が“僕”から“君”に切り替わる。これは、カフカ少年が佐伯さんの過去の恋人に見立てられている時に起こる現象である。このシーンはP115の場面よりもさらに心と現実が重なり合っている。
  • P165 雷が鳴る。次の章の、佐伯さんが雷に打たれた人の本を書いたというシーケンスと、遠い重なりがある。連想が働くというていどの婉曲的なつながりである。二つの異なる立場の間に、強い共感、共時性のようなものが働いていることが感じられる。(すでに数章前に)物理的な距離も近くなっている。
  • P168 ナカタさんが自分がからっぽであることを星野青年に告白する。女教師に頬を叩かれて以来、彼はからっぽになってしまった。それはどのような状態なのか。
    • からっぽであるということは、自分の考えと意味を失くした状態のことである。意欲がわかない。性欲さえない。
    • そのようなからっぽの状態は、悪を呼び寄せやすい。ナカタさんはジョニー・ウォーカーの影響を受けて、彼を殺してしまった。しかしそれはまた、自己を取り戻す方向へと進んでいく出発点でもあった。そこでは怒りが鍵となっている。
    • 特殊な能力が身につく。猫と話す。空からものを降らせる。それは危険なことを引き起こしかねない力でもある。
  • P172 「ナカタは出入りをした人間だからです」。ナカタさんは昔、自分自身の肉体から心を引き離して逃げ出した。あまりにも辛いことがあったからである。肉体は箱であり、心はその中身である。逃げ出した時、彼は中身を半分失ってしまった。半分しか身体に戻ってこなかったのである。そのような状態が、“からっぽ”である。
  • P195 カフカ少年の父親は、ゴルフ場でキャディーのアルバイトをしているときに雷に打たれた。これはフィッツジェラルドの『冬の夢』という短編からの形を変えた引用と思われる。主人公のデクスターはゴルフ場でキャディーのアルバイトをしているさなかにジュディー・ジョーンズという美しい少女と出会い、「強い感情的なショック」を受ける。恋に落ちることと雷に打たれることとの間のイメージ的なつながり。
  • P201 雷が鳴る。「まるで失われた道義を隅々まで糺すかのように、落とせるだけの稲妻を矢継ぎ早に落としたが、やがては東の空から届くかすかな怒りの残響へと減衰していった。」「目に映るすべての建物が雨に濡れ、ところどころの壁に走ったひびは年老いた人の静脈のように黒ずんでいた。」 ナカタさんの怒りが雷に反映されていることを示唆している描写。何度も読みたくなる、優れた、力のある表現。
  • P221 35章の冒頭。「洞窟の入り口に向けて歩きはじめる。そして「もう少しでみつかるところだったのにな」と思う。でも同時に、それがみつからなかったことに内心ほっとしてもいる。」 ナカタさんが入り口の石をひっくり返したことの影響がここに表れている。カフカ少年はより心の深い領域へと進んでいく。
  • P253 海の匂いがするとナカタさんが言う。星野青年には匂いが分からない。ここでも海と猫が共通した性質を持っていることが示されている。からっぽであるナカタさんは海と猫に距離が近い。星野青年には未来があり、ナカタさんとは違ってからっぽではない。
  • P284 ナカタさんが文字が読めないことの辛さを告白する。星野青年はベートヴェンの説明をする。すなわち耳の聞こえない作曲家の辛さについて語る。我々はここで、言葉が無力であることを心底感じている小説家について、考えずにはいられない。『海辺のカフカ』はそのようなレベルから、これよりも下がないというゼロの地点から物語が立ち上げられていると言っていい。この傾向は『1Q84』においてさらに顕著になる。
  • P285 ナカタさんが夢の中の出来事について語る。字が読めるようになり、図書館に行ってたくさんの本を読む。しかし途中で急に暗くなり、本が読めなくなってしまう。この箇所はカフカ少年が図書館でたくさんの本を読むことと対比されている。カフカ少年は正しいコースを進んで成長しているのに対し、ナカタさんはそのような道を歩めないまま歳を経て、老人になってしまった。もはや人生を取り戻せない。それは、悲しいことだ。
  • P287 ニュースという形で、カフカ少年の父の芸術家としての功績が語られる。上巻でも強調された。これは星野青年の章で言うと、ベートーヴェンのエピソードに相当する。ベートーヴェンの大公トリオの素晴らしさや、葬式に大勢の人が列席したことに当たる。
  • P324,P327,P360 ベートーヴェンの伝記を星野青年が読む。ベートーヴェンの優れた能力と、気難しい性格が強調される。星野青年はベートーヴェンを批判する。「だいたいは本人の責任なんだよな。ベートーヴェンってのは、もともと協調性というようなものはほとんどなくて、自分のことしか考えてない。」 ここは非常に大事な部分である。この文章に村上春樹の考え方が開陳されているからだ。古い、典型的な芸術家の生き方を彼は否定している。優れた作品を作ろうとして無理に自己の内部の部屋のドアを開けても、善き結果は訪れない。その分だけ、正確に周りの人間に毒が投げつけられることになる。「自分のことと、自分の音楽のことしか頭にない。そのためには何を犠牲にしたってかまわないと思っている。」 ここも『海辺のカフカ』を読み解くにあたって避けては通れない箇所だ。作家は、他の物を犠牲にして、自己を目的として芸術作品を作ろうとしても、結局は不幸に陥るだけだと主張しているのである。佐伯さんがP360で、『海辺のカフカ』という曲を作ったことを語る。彼女は「そのような侵入や流出を防ぐために」と語る。つまり、『海辺のカフカ』の作曲は自分のために行ったことである。結局のところそれは悪しき結果しか呼ばなかった。以上の議論を念頭に置いて、今度はP326の星野青年の台詞に戻ってみよう。「あの人(ナカタさん)ならひょっとして偉人になれるかもしれないね」。ナカタさんは自分自身を目的としない。彼は自己を犠牲にしてカフカ少年を助ける。
  • P362 佐伯さんが自分の書いたものを燃やしてくれとナカタさんに頼む。カフカは原稿を焼いてくれと友人に頼んでから亡くなったが、友人はそれに逆らって原稿を刊行した。しかしナカタさんは本当に佐伯さんの書いたものを燃やしてしまう。ここにも芸術作品を尊重しない作家の考え方が表れている。重要なのは人の方であって、作品ではない。佐伯さんは森の深部で、カフカ少年に向かって自分を覚えていて欲しいと訴える。そのような記憶の引き継ぎにこそ意味があるのだ。それによって若い世代は癒され、また過去の世代の罪を赦すことができ、物の見方にも幅が出て、人間性が成長する。もしもそのような人格の発展に寄与しないのであれば、“作品”には価値などない。
  • P370 ここからカフカ少年は異世界に入る。森の深部。ガイドとして姿を現す二人の兵隊は戦争という遠い傷の記憶と結びついている。カフカ少年はスプレーや鉈や食料などを置いていく。無防備にならない限り、心の深い所に到達することはかなわない。イシュタルの冥界下りのように、自分の身を守るものが剥がされていく。
  • P373 「僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?」 これがカフカ少年の課題であることが明快に宣言される。課題は後で、佐伯さんとの対話によって解決を見る。
  • P397 ナカタさんが死ぬ。入り口を閉じる仕事が星野青年に引き継がれる。
  • P422 『サウンド・オブ・ミュージック』がテレビで放映されている。上巻の女教師の引率のエピソードを想起させる描写。森に女教師の魂はまだ留まっている。実際にあった現実とは裏返しの光景がテレビに映されていることになる。このような婉曲的なつながりの描写は、村上春樹の持つ優れた技術のひとつだ。反転がおこなわれている所に彼の技術の巧みさがある。『サウンド・オブ・ミュージック』からさらに連想の手が伸びていき、カフカ少年はこう考える。「もし僕の少年時代にマリアのような人がそばにいてくれたら、僕の人生はもっとちがったものになっていたことだろう(はじめてその映画を見たときにもそう思った)。でも言うまでもないことだけど、そんな人は僕の前には現れなかった。」 彼の持つ課題がくりかえし強調されている訳だが、同時にその嘆きはナカタさんの過去とも重なりあっている。読者の視点ではそのように見える。 
  • P439 星野青年が石に向かって語りかける。自分の人生を語る。彼は石を介することで、自分自身に向かって語りかけている。このシーンは『1Q84』でさらに発展を見せ、Book2終盤において、天吾が意識の戻らない父に向かって話す場面へと繋がっていく。
  • P455 47章が始まる。森の深部でカフカ少年が佐伯さんと対話する。本作でもっとも重要な章。
  • P470 以前こちらの記事で解説した場面。

「あなたは僕のお母さんなんですか?」、僕はやっとそう尋ねる。
「その答えはあなたにはもうわかっているはずよ」と佐伯さんは言う。
 そう、僕にはその答えはわかっている。でも僕にも彼女にも、それを言葉にすることはできない。言葉にすれば、その答えは意味を失ってしまうことになる。

答えとはつまり、佐伯さんはカフカ少年の母親ではない、という事である。それが事実だ。だがそれを言葉にすれば、メタファーは失われてしまう。だからP144においてもここにおいても、佐伯さんは明言を避けているのである。彼女はカフカ少年のメタファーを受け入れたかった。それには理由がある。まず、彼女はカフカ少年の魂の孤独を見抜き、その解決を手助けしてやりたかった。佐伯さんが母親役を引き受けてくれたからこそ、カフカ少年は自分を捨てた母親を赦すことができた。次に佐伯さんはおのれの死を前にして、カフカ少年をメタファーにすることで過去の恋人ともう一度抱き合いたかった。そうすることで最後に自分の課題を清算したかったのである。それは自己を犠牲にして若い世代を助けるという行為によって決着がなされるものだった。

  • P484 星野青年は悪しき者を殺す使命を授かる。石によって“入り口”が開かれた。その先には異世界が広がっており、自分の心のみならず無数の他者の記憶が入り混じっている。入った者次第では、その人が持つ心の課題を解決するための重大なきっかけが得られることだろう。だがそこは悪が侵入しやすい、あるいはもともと奥で眠っていた悪が目覚めて、逆流しやすい場所でもある。誰かが入り口の外に立って、悪しき記憶の逆流を監視し、出てこようとした者を抹殺しなければならない。星野青年はカフカ少年とは異なり、とうとうナカタさんの過去の詳細を知らないままだったが、そのような過去との微妙な距離のとり方こそがむしろ彼の力となっており、現実の秩序を守っていくために役立っているのである。なお、古い、傷ついた記憶と怒りの逆流というテーマは、『騎士団長殺し』でも扱われた。

 その他

事物があり、その後に、過去の記憶をもとにして比喩が現れてくる。それがプルーストの比喩である。それに対して、本作はまったく逆の方向を向いている。事物は、逃れようとしてきた辛い過去に決着をつけ、未来に向かっていくための起点である。すなわちメタファーの開始点である。人はメタファーを梃子にして、むしろ事物の方を動かす。そのような力強い意志が表れているのが本作である。このような“逆方向の意志”は『1Q84』に繋がっていくテーマである。『海辺のカフカ』なしに『1Q84』はなかっただろう。

また、プルーストが芸術作品に至上の価値を置きそれを目的としたのに対して、『海辺のカフカ』は人間の方に重きを置いた。芸術の価値もむろん認め、積極的に賛美しているが、それを一番の位置につけてはいない。芸術を賛美する際も、大島さんが星野青年に向かって語りかける時の台詞を注意して読んでみると、自己を高めることに力点が置かれていることが分かる。芸術はあくまでもそのような場所に到達するための通路に過ぎない。

海辺のカフカ』は、絵であり、曲であり、また小説でもある。プルーストの『失われた時を求めて』には三人の芸術家が登場するが、これらの三つに対応している。画家のエルスチール、作曲家のヴァントゥイユ、作家のベルゴットである。