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コスタリカ307

よいブログ。

声を聴く

 非対称な一対の存在

1Q84』を読んでいてつくづく思うのは、この作品は論理の構築物であるということだ。これほど理路整然としたパズルも他にない。

たびたび本ブログでも指摘してきたが、同作には“海”を軸にした直喩が頻繁に登場する。これは“二つの月”と対になっており、二つの月は青豆と天吾、青豆の不揃いな乳房、母親と娘などの暗喩になっている。つまり海と月は、直喩と暗喩というペアになっている。それは潮の満ち引きが月の引力の影響下にあるということとイメージ的な繋がりがある。

しかしここにはもう一つ見逃せない特徴がある。それは、海の直喩はあらゆる登場人物が口にしているという事だ。天吾の小学校の女教師は「岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かない(Book3前編 P264)」という台詞を言うし、タマルも「海の底を歩く」という言葉を使う。彼らは二つの月を見ていないにも関わらず、月の引力の影響下にあると言える。そして二つの月は限られた人物しか目に出来ず、彼らはそれを固い秘密として守り抜く。「月が見ている」という表現がたびたび出て来ることも考慮にいれると、そこには独自のルールが一貫して存在していることが分かってくる。すなわち、月は一方的に人々に影響をおよぼしており、それを自覚できる人間は一握りしかいない、ということだ。知覚できる人が限られているという意味では、リトル・ピープルにも似た性質がある。また牛河の覗きをふかえりが知覚するのも、このテーマと関連性があるのではないだろうか。

さて、以上の議論をもとにしてもう一度作品を概観してみると、実は「不揃いのペア」と言うべきものがあちこちに登場していることが判明する。

大塚環と青豆は親友だが、環は美人であり、生まれながらにして人に好かれる性格だ。青豆は整った顔をしているものの、美人とは呼べず、人から好かれない。環は自分の怒りを思うままに表現することができず自殺するが、青豆は彼女に代わってそれを自らの怒りとし、行動にまで移す。彼女たちは異なった性質を持った、しかし仲の良い一対の存在だったのだ。

青豆と天吾もそうだろう。Book1から2にかけて、青豆は常に移動する存在としてある。対して天吾は移動量が少なく、彼の大事な仕事は自室で行われる。青豆の仕事が出先で行われるのとは異なる。名前のあつかわれ方も違う。青豆が主に名字で呼ばれるのに対し、天吾は名前で呼ばれる。いや、そもそも彼らは性別だって別ではなかろうか。そのようなさまざまな相違にも関わらず、彼らが本作においてもっとも重要なペアであることに異論をとなえる人はいないだろう。

このようにして、二つの月の色と大きさが異なっているように、性質に差異がある惹かれ合う一対の存在というのが、作中での“正しい”存在なのである。その倫理は、空気さなぎに関するエピソードにおいても確認できる。ふかえりは空気さなぎを紡いでドウタを産みだすが、出てきたのは自分自身だった。この話は、作中では否定的に扱われている。それに対して天吾の産みだした空気さなぎは、青豆をその場に現した。つまり自分とまったく同じものを作り出してそれと向かい合うのは間違っており、異なる存在を希求して向かい合う姿勢こそが正しいという価値判断が、ここでは提示されているのである。

 声を聴く

リトル・ピープルについては、以前次の記事で解説した。

riktoh.hatenablog.com

リトル・ピープルとは言わば人々の失われた声である。言葉にされなかった主張、完遂されなかった願い、暴力によって踏みにじられた傷、そういったものだ。それらは決して消えず、いつまでも世界に残り続ける。さきがけのリーダーはそれを知覚し、彼らの主張を代弁することが出来た。

実は天吾にも似たような資質がある。彼は塾で数学の教師をしており、生徒からの人気も高い。

 数学教師としての彼は教壇の上から、数学というものがどれくらい貪欲に論理性を求めているかということを、生徒たちの頭に叩き込んだ。数学の領域においては、証明できないことには何の意味もないし、いったん証明さえできれば、世界の謎は柔らかな牡蠣のように人の手の中に収まってしまうのだ。講義はいつになく熱を帯びて、生徒たちはその雄弁に思わず聞き入った。彼は数学の問題の解き方を実際的に有効に教授するのと同時に、その設問の中に秘められているロマンスを華やかに開示した。天吾は教室を見まわし、十七歳か十八歳の少女たちの何人かが、敬意をこめた目で自分をじっと見ていることを知った。彼は自分が数学というチャンネルを通して、彼女たちを誘惑していることを知った。彼の弁舌は一種の知的な遊戯だった。

村上春樹著『1Q84』)

Book2の終盤で天吾が昏睡した父親に語りかけるシーンは、上記の場面と対になっていると読める。衆目を前にして心をつかむような言葉を語るには、彼らの奥底にある思いを代弁することを言ってやればよいだけだ。そこに自分というものは必要ない。しかし何も反応を示さない、こちらの言葉を聞いているかどうかすら分からない人を前にしてものを語るとなると、そのようなやり方は有効でなくなる。相手の反応ありき、相手の心の中身を引き出すことが目的といった方法論は、通用しないのだ。

もしもそのような虚無のなかで力を発揮するものがあるとすれば、それは自分自身しかない。自己の中心にあるものをつかみ、温め、その熱を相手に伝えてやるような呼びかけにのみ、我々はわずかな可能性を見出すことができる。天吾がそれまでの彼の人生を語るのはそのためである。

実はここまでの内容が理解できると、『1Q84』の中心的なテーマは読み切ったということが言えるだろう。この作品はBook2、つまり全体の2/3のところで必要なことがすべて語られているのだ。Book3の役割については後述する。

もう少し「声を聴く」というテーマについて掘り下げをおこなうと、青豆もまた声を聴きやすい体質だと言えるかもしれない。彼女は親友である大塚環がレイプされたときに、代わりに怒りを表現し、実際に行動に移す。その後は老婦人やDVを振るわれている女性たちの“声にならない怒り”を引き受け、さらにエスカレートした処置を男性たちにくだすようになる。

本稿のはじめに解説した「不揃いのペア」という構造を通してこれらの事態を見てみると、ある性質が読めてくる。それは一方からもう一方へと、力が送られていることだ。上記のような怒りの力の授与や、天吾が空気さなぎを通して青豆に呼びかけ、その結果青豆が自殺を思いとどまるといったシーケンスについて、その特徴が認められる。母親と胎児という構図も同じで、母が子へ栄養を送って育てている。

さて、他人の怒りに感応しやすい青豆が、避難先のマンションに“閉じ込もり”、天吾の小説を読むこと意義は大きい。彼女は物理的な壁によって他人の声を妨げるのだ。そして“一人”で小説を読む。大勢の人たちと共にビッグ・ブラザー(とはつまり単なるリトル・ピープルの代弁者にすぎないのだが)の演説を聴くのではない。小説は人が書いたものではあるが、結局はただの紙とインクでしかない。彼女は文字通り“一人”で自分自身の考えを、意欲を育てるのである。そのための方法論が『空気さなぎ』には示唆されている。

 これからはこれまでとは違う。私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない。これから私は自分にとってのただひとつの原則、つまり私の意思に従って行動する。私は何があろうとこの小さなものを護る。そのために私は死力を尽くして闘う。これは私の人生であり、ここにいるのは私の子供なのだ。

 Book3

Book3の役割は単純で、要するに最後のクライマックスのためにある。すなわち天吾と青豆が共に非常階段を昇っていくシーンを実現するために、Book3の大半の紙幅がその準備として費やされている。

二人が新しい出会いに復活し、再生するためには、不要なものを捨てなければならない。それを引き受けてくれるのが牛河という男なのである。彼は二人の過去を調べて明らかにしていくのだが、それはつまる所「不要な過去を捨てる」ことへと繋がっている。彼は最終的に天吾と青豆を出会わせたうえで、様々なとばっちりを引き受けて、犠牲となって死んでくれるのである。

まず天吾について語ると、彼はBook3では何もしていない。Book3の最初の天吾の章では、終盤に次のような文章が置かれている。

「どうやら手詰まりみたいだ」と天吾は壁に向かって言った。「変数が多すぎる。いくら元神童でも答えを出すのは無理だ」

物語の前半にあたるBook1-2ではトリを務めたのが天吾なので、Book3では青豆が最後に主役を張ることになる。

青豆はプルーストと『空気さなぎ』を読みつつ、新しい自分に生まれ変わるための準備を少しずつ進める。Book3の青豆の章は、彼女の内面の変化と文末の変化をものがたっていると言えよう。つまり自分の顔を美しく思ったり、夢を見て心の有り様が変化していくさまが、内面の変化に当たる。文末の変化は時間感覚の変化として、プルーストとの関連の中で語られることになる。最終的に「プルーストを読む必要はない」という宣言がタマルとの対話の中でなされるが、それはやはり過去を捨てるというテーマと関係性があり、具体的には文末の変化として表れているのである。青豆の章はBook1,2と異なり、主な文末が「タ形」から「ル形」へと変わっている。これにより最後の場面では臨場感が強調されることになるのだ。まさに自分自身のちからで信じるものを目の前に現出させるという思いを、補強する役割を果たしている。

 何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。信じるんだ、と彼女は自分に言い聞かせる。あの雷雨の夜、リーダーが死ぬ前に口にしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞だ。彼女は今でもそれを正確に記憶している。

  ここは見世物の世界
  何から何までつくりもの
  でも私を信じてくれたなら
  すべてが本物になる

 何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。

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