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コスタリカ307

よいブログ。

特殊な飢餓と適切な妥協

村上春樹

最近、村上春樹の『パン屋再襲撃』と『象の消滅』を読んだ。この記事ではまず『パン屋再襲撃』の一度目の感想を書こうと思う。

パン屋再襲撃』を読み解く鍵は、一度目の襲撃の時に主人公がパン屋からもちかけられた取引にある。

主人公とその相棒はむかし、夜遅くに包丁とナイフをボストン・バッグに詰めてパン屋を襲ったことがあった。あまりにも貧乏で食べる物も買えなかったからだ。そこで二人は脅迫した相手から不思議な提案を受けることになる。ワグナーの『タンホイザー』と『さまよえるオランダ人』の序曲を聴きとおせば、無料でパンをくれるというのだ。彼らは凶器を収めることにして、提案を承諾する。そして「我々」はめでたくその代償としてパンを得るのだが、しかしそこには「何か重大な間違いが存在している」ように感じられてならない。

「そしてその誤謬は原理のわからないままに、我々の生活に暗い影を落とすようになったんだ。僕がさっき呪いという言葉を使ったのはそのせいなんだ。それは疑いの余地なく呪いのようなものだった」

村上春樹著 『パン屋再襲撃』)

私見では、この交換は交換として成り立っていない。ワグナーを聴くという行為によって得られるものは、ワグナーの音楽を聴く喜びでなければならない。しかし彼らはワグナーを聴くという行為の対価として、パンを得るという錯誤を犯してしまった。パンは人の食欲を満たすが、これは芸術を味わう精神的な喜びとはまったく異なるものだ。ある意味ではパンという現実的な存在が、音楽を聴く喜びの前に壁として立ちはだかってしまったのである。

このように考えると、パンを五日のあいだ食べ続け、缶ビールを真夜中に四本飲み、バター・クッキーを二枚食べて、ビッグマックを六個も食べたことの説明がつく。「僕」が本当に感じているのは食欲ではない。優れた音楽や文学を求める飢餓なのだ。しかしその特殊な胃袋は肉声を持たない。そこで肉体の側の胃袋を通じて、主人公に訴えかけてきたのである。だから彼はいくら物を食べても、本当のところは満たされていない。

やがて主人公は妻にリードされる形でマクドナルドを襲い、三十個のビックマックを得て帰る。このとき主人公達が強盗にやってきてもマクドナルドの中で眠りこけているカップルの姿は、きわめて象徴的である。彼らはおそらく、主人公の内側にいる存在だ。「僕」の魂の中でまだ覚醒しきれていない、精神的な達成を求める部分だと考えると、理解できると思う。彼らは眠り続けているので、強盗はスムーズに成功する。それは実に拍子抜けするほどなのだ。

最終的に二人はビックマックを心ゆくまで食べて、妻の方は非常に満足して眠りにつく。僕の方は起きたまま一人になるが、食欲はおさまっており、内面は穏やかであり、最後には眠る。これは何を意味しているのだろうか。

ふりかえってみると、作品全体を通して積極的に行動しているのは主人公の妻の側である。家から出てパン屋を探す提案をするのも奥さんの方だ。彼女は実に現実的な存在なので、パン屋が見つからなければマクドナルドで代用してしまう。強盗もお手のものであり、どこからともなく銃を取り出して主人公に渡す。そうして食べ物を首尾よく得て、平らげて先に眠る。「こんなことをする必要が本当にあったんだろうか?」という夫の疑問に対しても、「もちろんよ」のひとことで一蹴してしまう。

重要なのはこれらの行為によって、ひとまず飢餓が収まるということではないだろうか。「ひとまず」という所が肝心である。それは抜本的な解決とは言えないが、さしあたりの波乱は回避している。もしも主人公が一人で深夜に起きて家の中でずっと考え続け、「そうか。これは精神的な飢餓であり、僕には何かが足りないんだ」と思ってしまったら、夫婦というものはどうなるだろう。夫が現実を無視して人生の冒険にくりだしてしまったら、生活は大変苦しいものになり、夫婦の仲は破綻してしまうかもしれない。

あるいはマクドナルドの中のカップルが目覚めて元気に活動していれば、どのようなことが起こっていたであろうか。「僕」は彼らに銃をつきつけて脅さなくてはならなかったろう。そうすれば何らかの形で反撃をもらい、主人公達は危機にさらされていたかもしれない。そう、それはまさしく「夫婦生活の危機」なのである。

このような読み方をしてみると、実はこの小説は夫婦が二人で生きていく過程で経験しなければならないことを描いているのだ、ということが分かってくる。もしもこれが主人公一人の話だったら、パン屋を探し当てずにマクドナルドに入るのは、単なる堕落である。だがそれを先導したのは実際には妻、つまり自分の半身であるから、物事の全体のバランスは取れていると言った方が、実質を適切にあらわしていることになる。本質的な課題はいったん先延ばしにされた訳だが、二人は元気に生活を続けることができている。夫婦が二人で暮らしていくには、なによりもまずそれが重要だということだろう。最初の襲撃のあと「呪い」を鎮めることができずに相棒と別れてしまった過去とは、対照的な結末になっている。『パン屋再襲撃』というお話が全体的にコミカルなのは、「正解ではないがとりあえずトラブルは回避された」という性質に拠っているのだろう。ユーモアによって、我々は精神の余裕を取り戻すことができる。

それにしても眠っているカップルの描写は、重要なポイントであると思う。こういう所を決しておろそかにしないからこそ、我々は村上春樹を一人の作家として信頼するのだ。