『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はタイトルに「ハードボイルド」という言葉を含んでいる。本書中にヘミングウェイという言葉が出てくることを考慮すると、これはおそらくヘミングウェイの文学的スタイルを指した言葉だろう。具体的には『武器よさらば』を意識してこの作品は書かれたのではないかと僕は思う。

『武器よさらば』の文体の特徴は一人称であるにも関わらず、心情が吐露されていない点である。異様なほどに事実の率直な描写に力点が置かれており、戦争で怪我をしたり、療養中に素敵な看護婦と出会ったりしたことの主人公の心の動きは直接には描かれない。ヒロインに対する受け答えにおいても、主人公は出来る限り相手の心に寄り添うように努めており、主人公が我儘を押し通すことは少なく、激しい痴話喧嘩は起こらないのである。恋愛小説としての魅力はヒロインの発言や時折垣間見える甘い表現によってのみ担保されている。

そうした心情の隠蔽が文学的にもっとも力を発揮するのは結末の場面である。主人公はヒロインの手術中に病院の外を出て食事をするということを何度も繰り返すのだが、この箇所は、医者ではない主人公にはヒロインの危機に際してただ待つ以外に方法がなく、まったくの無力であるということをよく表している。こうした無力感の頂点にあたるのが最後の2Pである。

出血が何度も繰り返されたらしい。医師たちにも止められなかったのだ。ぼくは部屋に入って、キャサリンが息を引きとるまでそばについていた。意識が最後までもどらないまま、しばらくして彼女は息を引きとった。

外の廊下で、ぼくは医師に話しかけた。「今夜、何かできることがあるでしょうか?」
「いいえ。何もありません。ホテルまでお送りしましょうか?」
「いや、けっこうです。もうすこしここにいますから」
「申しあげる言葉もありません。なんとも、その――」
「ええ」 ぼくは言った。「何も言うことはありません」
「おやすみなさい」 医師は言った。「ホテルまで、お送りさせていただけませんか?」
「いえ、けっこうです」
「ああするしかなかったのです」と、彼は言った。「手術の結果わかったのですが――」
「もうおっしゃらないでください」
「ホテルまで、お送りしたいのだが」
「いえ、けっこうですから」
彼は廊下を遠ざかっていった。ぼくは病室の戸口にいた。
「いまはお入りにならないで」看護師の一人が言う。
「いや、入らせてもらうよ」
「まだ、いけません」
「あんたのほうこそ出ていってくれ」ぼくは言った。「もう一人も」
しかし、彼女たちを追いだし、ドアを閉めて、ライトを消しても、何の役にも立たなかった。彫像に向かって別れを告げるようなものだった。しばらくして廊下に出ると、ぼくは病院を後にし、雨の中を歩いてホテルにもどった。

(ヘミングウェイ著 高見浩訳 『武器よさらば』)

ここで作品は終わっている。一読してみれば分かるように、ここにはほとんど心情の告白が見当たらない。人生最大の落胆と失望を前にしても主人公は終始一貫して心を頑なにしており、感情を外に出さないのである。

おそらく村上春樹は『武器よさらば』を念頭に入れて、このような感情の硬直性を一種の課題とみなし、それを解決することを『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の目的に設定したのではないだろうか。

「いろんな要因があるです」と博士は言った。「幼児体験・家庭環境・エゴの過剰な客体化・罪悪感……とくにあんたには極端に自己の殻を守ろうとする性向がある。違いますかな?」
「そうかもしれない」と私は言った。

ハードボイルド・ワンダーランドの側の主人公にそのような固い殻を設定し、この殻の内側で起こっていることを書いたのが世界の終りのパートである。前者が問題設定のパートで、後者が解決のためのパートだと捉えると分かりやすい。強すぎる殻の内側、つまり壁の内側においては、心は打ち消されていく。外に表出しない硬直した感情はやがて死んでいってしまうのである。

「なあ、君」と大佐は言った。「壁はどんな心のかけらも見逃さんのだよ。仮にもしそんなものが少しばかり残っていても、壁はそれをみんな吸いとってしまう。」

 

「そうだ。君は彼女と寝ることもできるし、一緒に暮らすこともできる。この街では君は君の望むものを手に入れることができる」
「しかしそこには心というものが存在しないのですね?」
「心はない」と老人は言った。「しかしやがては君の心も消えてしまう。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。」

村上春樹は課題を解決するために壁の外側を切り捨てることを決意する。ハードボイルド・ワンダーランドの主人公を「消滅」させ、壁の内側だけに物語の資源を集中させるのである。そうして彼は主人公の心を活性化させることに成功する。消滅の際にハードボイルド・ワンダーランドの主人公が言い残す言葉は注目に値する。

 私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。
 もっと若い頃、私はそんな哀しみをなんとか言葉に変えてみようと試みたことがあった。しかしどれだけ言葉を尽してみても、それを誰かに伝えることはできないし、自分自身にさえ伝えることはできないのだと思って、私はそうすることをあきらめた。そのようにして私は私の言葉を閉ざし、私の心を閉ざしていった。深い哀しみというのは涙という形をとることさえできないものなのだ。

これこそまさにハードボイルドの文体が裏に隠蔽している感情である。それはどうしても言葉にならないものなのだ。完全な世界など存在しない、ということが繰り返し世界の終りのパートで主張されるが、これをハードボイルド・ワンダーランドの側に置き換えて表せば、完全なハードボイルドの文体など存在しないということになるだろう。それは必ず歪みを生み出す。歪みは善くない物を呼び寄せ、物事を不幸な方向へと押し流していく。そのような方向性の果てにあるものが『武器よさらば』の虚無的なラストだと捉えると理解がしやすいのではないだろうか。

さて消滅の後、最後のパートが訪れる。最後のパートは、世界の終りである。主人公がそこで心を取り戻すことを決意するところで物語は終わりを告げる。彼は壁の外側には出て行かない。むしろ内側に留まってそこを活性化させることに彼は関心を移したようである。それは最終的に感情の殻を解決する方向性の考えではないかと思われる。

「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」