コスタリカ307

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指の多義性

本稿では『多崎つくる』の異なる三つの項目について書いた。これまでの記事はこちら。

 二重の自己

『多崎つくる』の作中では、自己との解離、分裂、あるいは二重性という現象について繰り返し言及がなされている。

前回の記事で語ったように、主人公は自分の内奥にある意欲や願望に気付いていない。そのことを端的に表しているのが序盤の次の文章である。

眠るべき時間が来ると、ウィスキーをまるで薬のように、小さなグラスに一杯だけ飲んだ。ありがたいことにアルコールに強くなかったせいで、少量のウィスキーが彼を簡単に眠りの世界に運んでくれた。当時の彼は夢ひとつ見なかった。もし見たとしても、それらは浮かぶ端から、手がかりのないつるりとした意識の斜面を虚無の領域に向けて滑り落ちていった。

つくるはつくる自身とつくるの夢に分裂しているのだが、彼はそのことを自覚できていない。または自覚しようという態度が欠けている。そのようにもう一つの自己を遊離させておくことが、『多崎つくる』や『1Q84』における“論理”においては、災いを引き起こすきっかけであるとされている。

文庫版のP120で、沙羅はつくるに「あなたに抱かれているとき、あなたはどこかよそにいるみたいに私には感じられた。」と告げる。ここでは上記の解離が問題になっている。それを解消しない限り、自分はあなたと一緒にいられないと沙羅は主張しているのだ。

また漢字の二重性を通して、自己の二重性が指摘されている。漢字には視覚(字面)と聴覚(読み)の二つの面があり、また一つの漢字に複数の音が割り当てられることが多い。『1Q84』ではふかえりの障害を通して文章の聴覚の面が強調されているので、日本語の持っているこの分離の性格について、作家はかなり意識的であると分かる。

すなわち「作」という名前を、母親や姉は「さくちゃん」と呼ぶ。「つくる」という読み方と異なる読み方が並列して存在している訳で、そこでは自己のアイデンティティが二重になっている。「作」が本名であるにも関わらずつくる本人は自分の名前を積極的にひらがなで書いているので、ここでは音の二重性だけでなく、視覚(字面)と聴覚(読み)の二重性についても言及されていると理解できる。

なお灰田との会話で“駅”について同じ音を持つ別の漢字(液体の“液”)が取り上げられている。ちなみに三島由紀夫の本名は「公威(きみたけ)」だが、「コーイ」と呼ばれることもあったらしい。

 指の多義性

1Q84』における月は、『多崎つくる』ではおそらく“指”が相当するのだろう。

  • アオによって、5人組は5本指に喩えられている。
  • ピアノの鍵盤を叩く「十本の指」。終盤の白黒の夢において出て来る。
  • 六本の指を持つ黒衣の女性。終盤の白黒の夢において出て来る。
  • フランツ・リスト。技巧があまりにも優れていたため6本指を持つと評された。
  • つくるの背中を「匿名の指先」がタッチし、沙羅に特別な好感を持たせる。
  • エリは実物の指をつくるの背中に回す。「彼の背中に回された彼女の指は、どこまでも強く現実的だった。」
  • 駅で多指症の話と、切断された指のエピソードを聞く。

六本目の指は、夢や性欲、あるいはアカの言う「本来の自分」とイメージ的な繋がりがある。またそれとは別に、捨てられた過去、目を背けていた古い傷、歴史上の悲惨な出来事とも繋がりがある。そしてこの二つは、密接な関係性を持っているのである。

作品全体を振り返ると“指”の意味するところは多様であり、まとまりがない。つまり指そのものには、実は意味がない。中身がないのだ。それよりも重要なのは、指の形象がある場所から別の場所へと作家を連れて行ってくれることだ。指は、架け橋になっている。作家は指を用いた表現を行うことで、物語を推し進めたり、あるシーンで必要とされる表現を作り出すことができる。それはハブ空港のようなものだと言ってもいいかもしれない。あるいは乗り物だとも捉えられる。

なお、このことは『1Q84』の二つの月においても同様である。二つの月そのものには意味がなく、多義性を表現できる道具として、あるいは色んな物を詰めることができる箱としての機能性に意義がある。二つの月は直接的には隠喩として働き、青豆と天吾という二人の主人公を表したり、青豆のアンバランスな乳房を示唆したり、親と子供を表現したり、隠喩という現象を暗示したりする。また間接的には月と潮の満干の関係性を通じて、海を軸にした直喩という形をとって、作品の至る所に姿をあらわす。月という場所は至る所に道を伸ばしており、作家はそこからさまざまな場所に顔を出すことが出来る訳だ。

この事が理解できると、“駅”が“指”とイメージ的な繋がりがあるということがおのずと了解されてくるだろう。作家の視点から見ると、文章を書くという行為において、指は出発点の働きをなしてくれている。そこから移動して別の場所に行く、という意味において、指は作家にとって非常に“駅”的なのである。

そしてこの作品において主張されていることの一つは、指の比喩だけではなく、『多崎つくる』や『1Q84』といった作品そのものもまた読者にとっては駅であるということだ。すなわち村上春樹は中身が空であるものを人々に提供する。だがその“空”性には、空でありながらも積極的な働きが、呼びかけが認められる。人々はそこで身を休めるかもしれないし、自己の意欲に目覚めて育て直すきっかけを掴むかもしれない。終盤でエリが言っているのはそのような主張であり、作品そのものについて言及したメタ的なメッセージとなっている。

「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」とエリは言った。「もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。そう思わない? それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に」

次の主人公の台詞も同じ事を伝えている。

「単純なことだよ。もし駅がなければ、電車はそこに停まれない。僕がやらなくちゃならないのは、まずその駅を頭に思い浮かべ、具体的な色と形をそこに与えていくことだ。それが最初に来る。何か不備があったとしても、あとで直していけばいい。そして僕はそういう作業に慣れている」
「あなたは優れたエンジニアだから」
「そうありたいと思っている」

最初に来る」というのがポイントだ。村上春樹はまず自分の心の泉の底から、何かが浮かび上がってくるのを待つ。今回は、たまたまそれが指だった。彼はそれをただ受け取る。目的なしに受け取る。そこに意味を見出そうとすることもないし、利用しようという思いもない。疑問なしに受け取るのである。その後に、少しずつ、さまざまな方向からそれに触ってみる。形を確かめていく。そして作家はそれを活用できる場面が来たら、積極的に使っていく。比喩として。時には直喩として、隠喩として。また物語中のエピソードのキーとして。それがどのような意味を為すのか、意義があるのかについては、考えない。電車に乗り、また降りてゆく人達が、どこから来てどこへ行くのかは、つくるの関知するところではない。それはその人達が決定し責任を担うべき問題なのであって、つくるには何も出来ないし、またするべきではないのだ。作家も同じことだ。彼は優れた文学を作り上げる。しかし、それはあくまでも読む人にとっては道具や機能、あるいは通過点としての場所にすぎない。村上春樹は、そのようなものを作ることに自分は全身全霊を傾ける、と言っているのである。

 記憶の引き継ぎ

記憶の引き継ぎというテーマは『海辺のカフカ』で中心的に取り上げられたテーマだが、『多崎つくる』においても色んな箇所に見受けられる。

たとえば灰田が話したピアニストの箱のエピソードを、つくるは長い間覚えている。彼はまた父親の形見として時計を譲り受け、それを使い続ける。姉が以前使っていた部屋に住み、そこで灰田の残していったレコードを用いて、シロの弾いていた「ル・マル・デュ・ペイ」を聴き続ける。そし てエリは「あの子(ユズ)は本当にいろんなところに生き続けているのよ」と語る。

また、つくるは比喩表現も友人から引き継ぐ。

つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
 そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

上記の引用において、村上春樹は巧みに複数の技術を組み合わせていると言える。以前の記事でも述べた「海を軸にした直喩」と、記憶の引き継ぎという二つのテーマである。『多崎つくる』は全体的にすっきりとした印象を与える文体であり、かつそれほど長くない小説だが、実際には非常に多くのテクニックやテーマが詰め込まれている。それはおそらく複数の異なる要素を一つの場所に詰め込むという、畳込みの技によって可能になったのだろう。

さらに指摘しておくと、「地面に血を流さない赦しはない」というフレーズは自身が訳した『心臓を貫かれて』から。そしてエリの語る鳥の鳴き方の挿話はおそらく、やはり村上春樹が訳した『ロング・グッバイ』に由来するものなので、メタ的なレベルからも記憶の引き継ぎというものに注意が払われていると分かる。

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因果関係というテーマ

本稿はこちらの記事から続いている。

riktoh.hatenablog.com

 因果関係について

『多崎つくる』という物語において主人公に与えられる問いは、「友人に絶縁された理由は何か?」というものだ。これは因果関係を把握するという問題に等しく、この種の問題意識が本作のあちこちに登場しているので、見ていくことにしよう。

まず確認しておかなければならないのは、この種の問いに対して本作は通常の意味での論理的な解答を与えてはいないということだ。そのことを宣言するように小説の前半に置かれているのが、次の一節である。

その大半は無害なミステリー小説だった

これは灰田のエピソードに登場する緑川の読んでいる本に対する言及である。さらにもう少し進むと、次のような文章が出てくる。

彼が哲学科の学生だと知ると、いくつか専門的な質問をした。ヘーゲルの世界観について。プラトンの著作について。話していると、彼がそのような本を系統的に読み込んでいることがわかった。害のないミステリー小説を読んでいるばかりではないらしい。

この箇所で大事なのは、ミステリー小説の価値が否定されているということだ。この示唆はつまるところ、「『多崎つくる』という小説の世界においてミステリー小説の持つ“論理”は力を持ちませんよ」という宣言に等しい。そこから後の緑川と灰田の父親の問答において出て来る“論理”とは、通常の意味での論理とは一線を画するものだ。そしてその論理こそが『多崎つくる』の主要なテーマ、すなわち因果関係を意味しているのである。だからここでは謎めいたほのめかしに限られている。作品の前半ですべてを説明してしまったらつまらないし、そもそも主要なエピソードの積み重ねなしでテーマをすべて語るのは無理がある。「その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります」と青年だった頃の灰田の父親も言っている。おそらく本稿を読み終えた後にもう一度その部分をひもといてみると、彼らの会話の意味がよく了解されるだろう。

小説の中盤で、緑川がピアノの上に置いた箱の謎が、後年になって判明するという出来事が語られる。切断された六本目の指ではないか、というのがつくるの推測である。この答えの入手方法には、2つの特徴が認められる。

  • 本来人が隠したいと思っていること、暴かれるのを嫌がるところ、封じたい歴史的な経緯に答えがある。
  • 本来むすびつかないはずの、無関係な2つの物事が、直感によって結びついている。

この構造を念頭に入れて読み解いていくと、後に登場するキーとなる記述をキャッチできるようになる。

たとえばエリとの再会の場面における次の文章がそうだ。

 彼女がまずやったことは、小さな娘をそばに引き寄せることだった。まるで何かの脅威から子供を守ろうとするかのように。

実際にはつくるの方には敵意はない。しかしクロがこのような行動を取ることによって、第三者から見ればあたかもつくるが復讐にやって来たかのように感じられることだろう。つまり後の時刻に起きたはずの「エリが娘を引き寄せる」行為が、時間を遡及して前の時刻のつくるの意志を決定してしまうのである。つくるの視点から見ればエリに敵意を持つというのは思いもよらないことだから、前述の「特徴」で言えば2つめに相当する事態、つまり無関係な二つの出来事が勘によって結び付けられるということが起こっていることになる。

現実にはつくるに敵意がないという認識は、夫の方がつくるを受け入れているということから支持されるだろう(作家はそのようにして読者の誤読を防いでいる)。つまり上記の箇所で語られているのは、「他者が自分をどう捉えているか」ということはしばしば事実と異なっており、しかしその両者は同じレベルの“真実”として同時並行的に存在している、ということだ。我々はそのどちらの真実も尊重しなければならない。子供を守る母親の姿から、我々はそのことを学ぶことができる。

さらに、クロとの対話の最後の方の場面で「沙羅が男と一緒にいるのを見かけたのは、自分がクロにプレゼントを買いに行ったからかもしれない」と把握するところがある。実際にはこのような直接的な記述ではなく、「もしも自分がクロにプレゼントを買いに行かなかったら沙羅が男といるのを見かけなかったろう」というような形式で書かれている訳だが、詰まるところここで語りたいのは前者の内容である。やはりここでも因果関係というものをつくるが学習しているのだ、と分かる。クロに対する潜在的な好意が(たとえ若い頃にしか持たなかった性欲であったとしても)、沙羅への接近を阻害する事態を引き起こした、と了解されるのである。また、ここで問題になっているのはつくるがどのようにして自分の心を整理していくかということであって、現実の世界のレベルでの因果関係ではない。

ここまでの議論を整理すると、次のように書くことができる。

  • 因果関係を把握するということは、自分の心に整理をつける方法でもある。
  • 原因は、自分が隠したいと思っている願いや、あるいは知られたくない過去にある。抑圧があまりに強いと本人にも自覚されないため、原因の追究は困難を極めることになる。
  • 現実世界の法則を無視して、無関係に思える二つの出来事が因果関係として結びつきうる。

上記の了解を延長させていくと、シロの破滅を引き起こした原因の一つは、つくるの抑圧された性欲にあるということが、おのずと了解されるのではないだろうか。この事はすぐ上の項目の中で言えば、二項目に相当する。もう少し正確に言えば、本当は自分の内に存在するものでありながら抑圧しているさまざまな望みや願いといったものを、分かりやすく代表するものとして、性欲が指摘されているのだろう。

無論こうした因果関係の捉え方は、つくるという個人が彼自身の内面の世界を整理し論理づけ、秩序立てていくためのプロセスとして為されているのであって、現実の論理を説明するものではない。そういう把握の仕方を真面目にすると、呪術的なレベルに世界観が堕ちてしまう。しかし時にはそのような心の世界が、現実の世界にちからを及ぼすこともある、というのが作家の考えなのではないかと私は思っている。すなわち、二つの世界は異なるものだが、お互いに影響を及ぼしうるのである。それをリアルと捉えて小説世界として立ち上げたのが、『1Q84』ではないだろうか。

 リトル・ピープルの力学

1Q84』のBook2では、リトル・ピープルが天吾や青豆に力を発揮しようとする。しかしそれは防がれる。そうして小説はハッピーエンドに向かって進んでいくので、それはそれでもちろん目出度いのだが、防がれてしまうと、結局リトル・ピープルは何をしようとしていたのか読者にとってはよく分からないままとなってしまう、という問題がある。『多崎つくる』で描かれているのは、その影の方の情景だと思われる。

文庫版のBook2の前篇のP286-287で、ふかえりは天吾に帰宅をうながす。なお同じ頃に青豆がリーダーを殺害せんとホテルの一室で面会している。

「いそいだほうがいい」
「どうして?」と天吾は尋ねた。
「リトル・ピープルがさわいでいる」

その後雨が降り雷が鳴る。その天候には無論何らかの意味がある。次の文章は青豆がリーダーの部屋から出て来て、坊主頭と話す所で、一文目は青豆の台詞。

「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」
「そうです。我々の耳には届かない声を、あの方は聴くことができます。特別な方です」、坊主頭はもう一度青豆の目を見た。そして言った。「今日はご苦労様でした。ちょうど雨もあがったようです」
「ひどい雷だった」と青豆は言った。
「とても」と坊主頭は言った。しかし彼は雷や雨にはとくに興味を抱いていないように見えた。

最初の青豆の台詞は相手への非難であるということは、以前解説した。 そして雷や雨に興味を抱かないというのも、やはり同様に倫理的な堕落を意味しているのである。つまり彼らはリトル・ピープルの接近、あるいはリトル・ピープルが接近するのに適した状況というものに気付くことができない。

青豆はその後雨のためにタクシーに乗るのが遅れたりする。彼女はそういった事態をリトル・ピープルの力によるものだと捉える。あるいは友人のあゆみが死んだのもリトル・ピープルのためだと考える。しかし結局のところリトル・ピープルの力は天吾にも青豆にも降りかからない。彼らは防ぐことに成功したのだ。

率直に言って、ここら辺のシーケンスは『1Q84』を読んでいてもよく分からない。詰まる所何も起きていないように見えるので、読者としては「あれは一体どういう意味だったのか」と首を傾げることになってしまうのだ。しかし我々はすでに『多崎つくる』に登場する「因果関係」という考え方を仔細に見てきた。その物の見方をここに適用すると、謎が解けるのである。

青豆は雨に自分の逃走が邪魔されることや、あるいは友人のあゆみが死んだのをリトル・ピープルのためだと捉えている。

まさに、ここに特殊な「因果関係」が顔を出しているのが認められる。当然だが雨が降るのはそのような天候のために起こっているのであり、あゆみが死んだのはセックスの相手が暴力的な性癖を持っていたからである。普通に考えれば青豆の考えは間違いだ。しかし青豆はそのような事象に対して、敢えて「リトル・ピープルが引き起こしたのだ」と捉える。彼女は能動的な操作をおこなっているのだ。それにより原因は“リトル・ピープル”となる。

ではリトル・ピープルとは何か? 前項の結論の三つの事項のうち、私は二つ目に原因を書いた。「原因は、自分が隠したいと思っている願いや、あるいは知られたくない過去にある。抑圧があまりに強いと本人にも自覚されないため、原因の追究は困難を極めることになる」。これに少し修正を加えて「自分の」ではなく「他者の」にすると、実はそれがリトル・ピープルというものの答えになる。人は誰もが心の中に大切な願いや意欲を持っている。あるいは、やがて発展してそのようなものになる種子を内に秘めている。しかしそれを持ち続けること、また発芽させることは大変に困難な作業であるから、多くの人はやがて諦めて、水をやることや温めることをやめてしまう。場合によっては、他者の暴力によって強引に叩き潰されることもある。『アンダーグラウンド』に書かれていることはそれだろう。

けれども話はそこで終わらない。「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」。やがてそのような中絶された願いは本人から遊離し、リトル・ピープルという形になって空気中を彷徨うようになる。それは人々に様々な影響を及ぼす。取り憑いた相手の意志を無視した事態を、現実のレベルで引き起こす。

ではふかえりの言っている「リトル・ピープルの持たないもの」とは何なのか。それさえあればリトル・ピープルから害を受けずに済むものとは?

それは自分の「中心」にある意欲や異性への愛に、再び熱を与えてやることだ。それこそがまさにリトル・ピープルの持たないものだからだ。それさえあれば彼らはそもそも生まれて来なかった。天吾がふかえりとの性交を通して青豆との記憶を鮮やかな形で取り戻すとき、「中心」という言葉が使われている。また青豆の章においても、「私という存在の中心にあるのは愛だ。」と語られている。

死んだ牛河や、あるいは子供を妊娠するという可能性を奪われてしまったつばさの口からリトル・ピープルが発生しているということを考えると、このような解釈に妥当性があると確認できる。

 マニュアル・ブック

以上の議論を終えて、我々はふたたび『多崎つくる』の前半に出てくる、「論理」をめぐる対話の箇所に戻ってこよう。次は灰田の父親と緑川の対話である。その中にマニュアルブックという言葉が出て来る。なお括弧内は引用者による追記である。

「たしかにその時点では(論理は)力を発揮できないかもしれません。論理というのは都合の良いマニュアルブックじゃありませんから。しかしあとになればおそらく、そこに論理性を適用することは可能でしょう」
「あとになってからでは遅すぎることもある」
「遅い遅くないは、論理性とはまた別の問題です」

1Q84』にもマニュアル・ブックという言葉が出てくる。青豆が『空気さなぎ』をマニュアル・ブックとみなし、そこから災害を未然に防ぐ、あるいは避ける方法を学ぶのである。しかし上記の引用部では、そのような考え方は否定されている。つまり両作においては同種の因果関係のルールが成り立つのだが、『多崎つくる』の側では人は因果に対して現実な力を及ぼすことができず、災いを未然に防ぐことはできない。ただし因果関係という物語をそこに読み取り、把握することだけは可能なのである。

 リトル・ピープルに着目した両作品の比較

前々項の結論を下敷きにすると、『多崎つくる』という作品においては主人公のつくるがリトル・ピープルを生み出し、それがシロが破滅することの一因になった、ということが言えそうだ。『1Q84』の方はリトル・ピープルを送りつけられる側の人間が主人公であり、『多崎つくる』においてはリトル・ピープルを送りつける側の人間が主人公なのである。前者はリトル・ピープルに抵抗することに成功する。後者はむしろリトル・ピープルを送りつけたことによって、他人だけでなく自分自身も深く傷つくという、恐ろしい事態にはまりこんでしまう。

 つくるは言った。「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく過酷な目にあわされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。正直言って、君たち四人を恨んだこともあった。なぜ僕一人だけがこんなひどい目にあわなくちゃならないんだろうと。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」
 エリは何も言わず、つくるの顔をじっと見ていた。
「そして僕はユズを殺したかもしれない」とつくるは正直に言った。「その夜、彼女の部屋のドアをノックしたのは僕かもしれない」
「ある意味において」とエリは言った。
 つくるは肯いた。

 まとめ

本稿では『多崎つくる』と『1Q84』に登場する因果関係という重要なテーマの究明に取り組んだ。その結果リトル・ピープルは因果関係というテーマと深い関係があるということが判明し、我々はその正体について理解を進めることができた。また因果関係を軸にして両作を比較すると、非常にはっきりとした対照性が認められるということが分かった。

影としての作品

本稿では『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が『1Q84』とペアとして存在している作品であることをまず述べる。その後べつの記事で、この事実を手がかりにして両作に共通する因果関係というテーマを読み解いていく。

 自動車 vs 電車

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は『1Q84』の影としての作品である。小説中に数多くのヒントが盛り込まれているため、それを一つ一つ検分していこう。

1Q84』は青豆がタクシーに乗っている所から物語が始まり、最後に天吾と二人でタクシーに乗り込む。『1Q84』にとって車とは、個を守る特別な容器や箱としての役割を担っているように思われる。Book3の終盤でタクシーの運転手が物語を総括するような挿話を語る点から考えても、車に乗るということに力点が置かれていると分かる。またBook2の最後の青豆の章では、真新しいメルセデス・ベンツに乗った中年の女性が、自殺を図る青豆を心配そうな様子で眺めており、我々はここでも車が肯定的なイメージを持っていることを確認できるだろう。

一方『多崎つくる』はかなり力を込めて自動車と電車(というよりも駅)を対比させている。主人公が青春を過ごした地はトヨタの地元である名古屋なのだが、大人になった今ではアオはレクサスを売り、アカは企業の社員を教育するビジネスを営み日産の関連企業とも付き合っている。つまり彼らが少年であった時に持っていた純粋性はいまでは失われているのだが、そのような「現在」は車という存在と密接に結びついているのである。ただしつくるの駅に対する感動や関心は幼い子供のころから持続しているものだから、そこには無垢な精神性が認められる。さらに、小説の終盤、それもエリとの再会を果たして日本に帰還してから後の場所に、かなり力を割いて駅そのものについての記述が置かれていることは、注目に値する。この作品にとって、駅にはそれだけの価値があるということだ。(ハードカバー版ではP348からP362)

 海を軸にした直喩

もうひとつは海の比喩である。『1Q84』では終始海に関連した比喩が登場する。

それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。(村上春樹著『1Q84』 文庫版Book1前編 P28)

 

大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。(P35)

 

無音の津波のように圧倒的に押し寄せてくる。(P37)

  

タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。(P71)

 

青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。(P82)

 

水の中にいる時のように音がくぐもった。(P297)

潮の満ち引きは月と関連があるので、海の比喩は月というテーマと結びついてるのだという事がおのずと推察される。『1Q84』という大きな物語を駆動させている力のみなもとは、月にある。そのような力の具体的な文章レベルでの顕現が、海を軸にした直喩なのだろう。我々はこの比喩を読むことで、遠く離れた場所にいる二人が同じ月の影響を受けているということを理解する。
 なお、どちらかというと青豆には船に関する比喩が多く、天吾の章では海に呑み込まれる比喩が多いように思われる。ふかえりが暗唱する平家物語のシーンなどがその典型だろう。

そして『多崎つくる』においても、この比喩は続投される。

みんなと別れて一人になると、暗い不吉な岩が、引き潮で海面に姿を現すように、そんな不安がよく頭をもたげた。
  
村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)

 

自分が四人の親友に真っ向から拒否されたことの痛みは、彼の中に常に変わらずある。ただ今ではそれは潮のように満ち干するようになったということだ。それはあるときには足元まで押し寄せ、あるときにはずっと遠くに去って行く。よく見えないくらい遠くに。

 

 つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
 そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

 

部屋に降りた沈黙は息苦しく、深い悲しみに満ちていた。そこにある無言の思いは、地表をえぐり、深い湖を作り出していく古代の氷河のように重く、孤独だった。

1Q84』では、天吾は自分の「中心」にあるものを発見することに成功する。それは青豆の記憶だ。Book2のふかえりとの性交のシーンでそのことが描かれる。彼が「猫の町」、つまり「海」や「リトル・ピープル」に接近しても無事でいられるのは、自分自身の核を再発見し、その中心部を温めて、確かな強度のものとしたからである。それに対して『多崎つくる』は「船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出された」訳であるから、船という自分を守る容器から、自分を守ることができない形で海に呑み込まれてしまったということになる。このような対照性がここには認められる。さらにこの読解を延長させていくと、電車や駅は「海」、すなわち集合的なものに属するものであると分かってくる。つくるにとって大事なテーマは個よりも集合的なものらしい。

 マニュアル・ブック

1Q84』にも『多崎つくる』にも「マニュアル・ブック」という単語が出て来る。次の記事では『1Q84』の場合についての意味を解説している。

riktoh.hatenablog.com

『多崎つくる』については別の記事で解説していくが、先に一言だけ述べておくと、因果関係という共通するテーマについて両作は真逆の方向性に顔を向けている。

 音楽

1Q84』ではヤナーチェックシンフォニエッタが、『多崎つくる』ではリストのル・マル・デュ・ペイが大きく取り上げられており、どちらも作中で大切な役割を果たす。前者が交響曲であるのに対し、後者はピアノソナタである。

 空気さなぎ

1Q84』では天吾が空気さなぎを作り、青豆を一時的にではあるが具現化させる。『多崎つくる』でもこれに相当する場面がある。

『ル・マル・デュ・ペイ』。その静かなメランコリックな曲は、彼の心を包んでいる不定型な哀しみに、少しずつ輪郭を賦与していくことになる。まるで空中に潜む透明な生き物の表面に、無数の細かい花粉が付着し、その全体の形状が眼前に静かに浮かび上がっていくみたいに。今回のそれはやがて沙羅のかたちをとっていた。ミントグリーンの半袖ワンピースを着た沙羅。

 女性の妊娠という出来事

最後に、両作の関係性をしめす決定的な点を挙げる。それは女性の妊娠の語られ方だ。両作品ともに、主人公の男性と離れた所にいる女性が子供を身ごもる、という点では一致している。ただし『1Q84』の青豆の場合は、天吾の子を授かったことが幸福に繋がるのに対して、『多崎つくる』 のシロの場合はつくるにレイプされて(正確にはされたと思い込んで)妊娠したことが、逆に不幸に繋がってしまっている。

以上から、『多崎つくる』は『1Q84』とテーマが一部重なっており、そのテーマのより暗い側面が語られているのだということが理解できる。

このことは、逆に言えば『多崎つくる』の読解が進めば、それだけ『1Q84』の読解も進展する、ということだ。次の記事ではそのような読解を、一つだけ試みた。

riktoh.hatenablog.com

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