コスタリカ307

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影としての作品

本稿では『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が『1Q84』とペアとして存在している作品であることをまず述べる。その後べつの記事で、この事実を手がかりにして両作に共通する因果関係というテーマを読み解いていく。

 自動車 vs 電車

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は『1Q84』の影としての作品である。小説中に数多くのヒントが盛り込まれているため、それを一つ一つ検分していこう。

1Q84』は青豆がタクシーに乗っている所から物語が始まり、最後に天吾と二人でタクシーに乗り込む。『1Q84』にとって車とは、個を守る特別な容器や箱としての役割を担っているように思われる。Book3の終盤でタクシーの運転手が物語を総括するような挿話を語る点から考えても、車に乗るということに力点が置かれていると分かる。またBook2の最後の青豆の章では、真新しいメルセデス・ベンツに乗った中年の女性が、自殺を図る青豆を心配そうな様子で眺めており、我々はここでも車が肯定的なイメージを持っていることを確認できるだろう。

一方『多崎つくる』はかなり力を込めて自動車と電車(というよりも駅)を対比させている。主人公が青春を過ごした地はトヨタの地元である名古屋なのだが、大人になった今ではアオはレクサスを売り、アカは企業の社員を教育するビジネスを営み日産の関連企業とも付き合っている。つまり彼らが少年であった時に持っていた純粋性はいまでは失われているのだが、そのような「現在」は車という存在と密接に結びついているのである。ただしつくるの駅に対する感動や関心は幼い子供のころから持続しているものだから、そこには無垢な精神性が認められる。さらに、小説の終盤、それもエリとの再会を果たして日本に帰還してから後の場所に、かなり力を割いて駅そのものについての記述が置かれていることは、注目に値する。この作品にとって、駅にはそれだけの価値があるということだ。(ハードカバー版ではP348からP362)

 海を軸にした直喩

もうひとつは海の比喩である。『1Q84』では終始海に関連した比喩が登場する。

それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。(村上春樹著『1Q84』 文庫版Book1前編 P28)

 

大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。(P35)

 

無音の津波のように圧倒的に押し寄せてくる。(P37)

  

タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。(P71)

 

青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。(P82)

 

水の中にいる時のように音がくぐもった。(P297)

潮の満ち引きは月と関連があるので、海の比喩は月というテーマと結びついてるのだという事がおのずと推察される。『1Q84』という大きな物語を駆動させている力のみなもとは、月にある。そのような力の具体的な文章レベルでの顕現が、海を軸にした直喩なのだろう。我々はこの比喩を読むことで、遠く離れた場所にいる二人が同じ月の影響を受けているということを理解する。
 なお、どちらかというと青豆には船に関する比喩が多く、天吾の章では海に呑み込まれる比喩が多いように思われる。ふかえりが暗唱する平家物語のシーンなどがその典型だろう。

そして『多崎つくる』においても、この比喩は続投される。

みんなと別れて一人になると、暗い不吉な岩が、引き潮で海面に姿を現すように、そんな不安がよく頭をもたげた。
  
村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)

 

自分が四人の親友に真っ向から拒否されたことの痛みは、彼の中に常に変わらずある。ただ今ではそれは潮のように満ち干するようになったということだ。それはあるときには足元まで押し寄せ、あるときにはずっと遠くに去って行く。よく見えないくらい遠くに。

 

 つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
 そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

 

部屋に降りた沈黙は息苦しく、深い悲しみに満ちていた。そこにある無言の思いは、地表をえぐり、深い湖を作り出していく古代の氷河のように重く、孤独だった。

1Q84』では、天吾は自分の「中心」にあるものを発見することに成功する。それは青豆の記憶だ。Book2のふかえりとの性交のシーンでそのことが描かれる。彼が「猫の町」、つまり「海」や「リトル・ピープル」に接近しても無事でいられるのは、自分自身の核を再発見し、その中心部を温めて、確かな強度のものとしたからである。それに対して『多崎つくる』は「船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出された」訳であるから、船という自分を守る容器から、自分を守ることができない形で海に呑み込まれてしまったということになる。このような対照性がここには認められる。さらにこの読解を延長させていくと、電車や駅は「海」、すなわち集合的なものに属するものであると分かってくる。つくるにとって大事なテーマは個よりも集合的なものらしい。

 マニュアル・ブック

1Q84』にも『多崎つくる』にも「マニュアル・ブック」という単語が出て来る。次の記事では『1Q84』の場合についての意味を解説している。

riktoh.hatenablog.com

『多崎つくる』については別の記事で解説していくが、先に一言だけ述べておくと、因果関係という共通するテーマについて両作は真逆の方向性に顔を向けている。

 音楽

1Q84』ではヤナーチェックシンフォニエッタが、『多崎つくる』ではリストのル・マル・デュ・ペイが大きく取り上げられており、どちらも作中で大切な役割を果たす。前者が交響曲であるのに対し、後者はピアノソナタである。

 空気さなぎ

1Q84』では天吾が空気さなぎを作り、青豆を一時的にではあるが具現化させる。『多崎つくる』でもこれに相当する場面がある。

『ル・マル・デュ・ペイ』。その静かなメランコリックな曲は、彼の心を包んでいる不定型な哀しみに、少しずつ輪郭を賦与していくことになる。まるで空中に潜む透明な生き物の表面に、無数の細かい花粉が付着し、その全体の形状が眼前に静かに浮かび上がっていくみたいに。今回のそれはやがて沙羅のかたちをとっていた。ミントグリーンの半袖ワンピースを着た沙羅。

 女性の妊娠という出来事

最後に、両作の関係性をしめす決定的な点を挙げる。それは女性の妊娠の語られ方だ。両作品ともに、主人公の男性と離れた所にいる女性が子供を身ごもる、という点では一致している。ただし『1Q84』の青豆の場合は、天吾の子を授かったことが幸福に繋がるのに対して、『多崎つくる』 のシロの場合はつくるにレイプされて(正確にはされたと思い込んで)妊娠したことが、逆に不幸に繋がってしまっている。

以上から、『多崎つくる』は『1Q84』とテーマが一部重なっており、そのテーマのより暗い側面が語られているのだということが理解できる。

このことは、逆に言えば『多崎つくる』の読解が進めば、それだけ『1Q84』の読解も進展する、ということだ。次の記事ではそのような読解を、一つだけ試みた。

riktoh.hatenablog.com

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分裂と統合

1Q84』には同じ名詞や字句のくりかえしが作中に頻繁に現れる。本稿では、その表現の持つ文学的な意味を探究する。

 同じ字句の繰り返し

次の一文は、天吾が『空気さなぎ』の改稿の許可を得るために戎野先生に初めて会いに行く場面から引用した。

呼吸もいつもの穏やかな呼吸に戻っている。

村上春樹著『1Q84』文庫版 Book1 前編 P265)

ごくシンプルなセンテンスだが、ここは『1Q84』がどういう小説なのかを物語っている箇所だ。

短い一文の中に「呼吸」という名詞が二回登場している。その前後でも登場人物のあいだのやり取りによって同じ表現の繰り返しが行われている。次の引用の中で、「彼女」とはふかえりを指す。

「もうこわくない」と彼女は疑問符抜きで尋ねた。
「もう怖くはないと思う」と天吾は答えた。

 

「よかった」とふかえりは抑揚のない声で言った。
 よかったと天吾も思った。

このような表現がおこなわれる前提として、自分の感情や気持ちが遠くに感じられる、それほど深く自己を喪失している、傷ついているということがある。そこで彼は自身を回復するために、手元にもう一度自分の心を引き寄せなければならない。そのプロセスの開始点として、まずふかえりが可能性としての疑問を提示する。怖いのか、あるいは怖くないのか。そのような問いを差し出されることによって、初めて天吾は「自分は怖くない」ということを「決定」できるようになる。こうした過程を経なければ、彼はいつまでも自分が怖いと感じているのか怖くないと感じているのか、よく分からないままでいることだろう。その混沌の中に取り残されるのは、詰まるところ常に怯えていることに等しいのだ。

 箱としての「ヤナーチェック

おそらく村上春樹は、とても低い地点にいた。それは「言葉には何の力もない」という恐ろしい場所だ。それは彼にとっては主義や主張ではなかった。ただ端的な事実だった。それは目の前にあり、手にとって輪郭を確かめることができるほどに明らかなものだった。それは「本当のこと」以外の何物でもなく、きっと世界でただ一人、村上春樹だけが事態の正確な認識をしていた。したがって作家は文章を書く人間にとってもっとも辛いところ、いわば極北から作品を立ち上げなければならなかったと言える。死んだままそのことに気づかずに地上で暮らし続けているような透明な心境から、彼は出発せざるを得なかった。

言い換えれば、彼の内には「言葉に意味を持たせなければならない」という課題があった。そこに血を通わせ、熱を取り戻すためにはどうすればよいのだろうか。これは、根本的な問いだ。

そこで作家はまず、言葉には力も意味もないということを素直に認めた。それを受け入れた。そして次に、名前というものをゼロから、じかに手でさわって確認することにした。視覚の利かない闇のなかで、固有名詞という箱にていねいに指を這わせ、手のひらの上に乗せて重さを量り、「それは確かにそこにあるんだな」ということをあらためて知覚しなおしたのだ。『1Q84』の冒頭の青豆の章を読みかえしてみると、24ページの中に「ヤナーチェック」という名前が13回登場しており、最初の1ページの中には「ヤナーチェック」と「シンフォニエッタ」が3回ずつ登場しているが、そのような繰り返しがなされる背景には、上述した物の感じ方が関係していると言える。我々読者は作家とともに何度も同じ固有名詞を文章中で取り上げることによって、様々な角度から名前というものを検証していくことになる。

この取り組みによって、「ヤナーチェック」という名前が持っている「箱」としての性質が浮かび上がってくる。作家は読者がヤナーチェックも彼のシンフォニエッタも知らないということを前提にして書いているようだ。さらに音楽というのはあくまでも音楽であって、文章をいくら読んだところで実際に聴こえてくるようなものではないから、この性格もまた「ヤナーチェック」や「シンフォニエッタ」の「箱」としての性質を強めていると言えるだろう。それは一つの「仮説」としてある。しかるべき意志とルール、手順を取りさえすれば、希望という中身を伴ったものへと育て上げることのできる箱だ。我々はすでに『1Q84』固有の隠喩表現について仔細に検討してきた(リンク)。そこでは容器、箱というものがテーマになっている。冒頭の文章は小説のテーマを予告しているのではないだろうか。

 二度の繰り返しと鏡の反射。分裂を統合する。

前項で述べた物の感じ方が実感として理解できていると、次の作中の台詞もおのずと了解されるだろう。

「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世に間違いなく存在していることを確かめる」(P113)

作家が小説を書くとき、もしも言葉に意味がなかったら一体どうなってしまうだろう。それは作品が消えることに等しく、作家にとっては自分が消滅することに等しい。このことは青豆が繰り返し述懐する、今の世界が本当に現実の世界であるということが信じられない、という思いと密接な関係がある。それは世界の終わりと何ら変わりがないのだ。だからこそ、「僕という人間がこの世に間違いなく存在していることを確かめる」という台詞が出てくる。

そのために、最初の項で述べた二度の繰り返しという表現が提示されたのである。

まず、分裂している自己が在る。本人はそのことを知ってさえいない。だからそのことを自覚するために、特殊な鏡が必要となる。その分裂してしまった箇所を示唆するような鏡だ。人はそれを見て自分の姿を知る。そしてその分かたれた半身を取り戻し、再統合をおこなう。それは鏡を見ることで初めて自分が汚れていたり、外傷があることを知るという現象に近い。こうしたメカニズムが把握できると、作中のあらゆる会話の中で疑問とその応答が出て来る訳も了解されるだろう。疑問もやはり鏡としての役割を担っているのだ。問われている側はそれによって、より深く自己を探索することができる。

確認しておくが、「分裂」という言葉は『1Q84』のキーワードの一つだ。序盤では分裂している自己というものが強調されている。

彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女の半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。(P93)

 

しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。(P233)

 執拗な繰り返しと分裂

ところで『ドン・キホーテ』の前篇には、『愚かな物好きの話』という独立した短編が挿入されている。これはセルバンテスの特徴が如実にあらわわれた小説で、雄弁な文体で執拗に同じことを繰り返す。するとそれによって独特のおかしさが生まれてくる、という仕組みになっている。

筋を言うと、結婚したばかりのアンセルモという男は妻の貞淑を確認したいがために、親友のロターリオに自分の妻を誘惑してくれないかと頼みこむ。親友であるロターリオならば仮に妻が陥落しても、肉体関係にまで進むことはないだろうと考えてのことである。ロターリオは思慮深い人間なので最初は友人の依頼を断る。それも心から彼のことを案じて、説得しようと試みるのである。

「いいかい、アンセルモ、天の配剤か幸運のたまものかは知らぬが、君がこの上なく見事なダイヤモンドの正当な所有者となったと仮定しよう。そして、その宝石を手にとって見たすべての宝石鑑定人がその質の良さと大きさに感嘆して、異口同音に、品質、大きさ、光沢のすべての面で完璧の域に達していると評し、君とてそれに欠陥を認めえないまま、彼らの価値を信じていたとしよう。そんな時に、君がそのダイヤモンドを鉄床の上に置き、金槌で力まかせに打ちつけて、はたして人の言うほど硬くて良質のものかどうか試してみようという気になったとしたら、はたしてその思いつきは当を得ているといえるだろうか? のみならず、君がそれを実行に移したとして、かりに宝石がそんな愚劣な試験に耐えたところで、それによって値打ちが上がったり声価が高まったりするものだろうか。反対に、もし砕けたとすれば、もちろん砕けないと決まったものでもないからね、それこそ何もかも失うことになるんだよ。いいかいアンセルモ、冷静に考えてみたまえ。カミーラがこの上なく上等なダイヤモンドであることは、君だけでなく世間の人が等しく認めるところなのに、そんな細君をわざわざ砕けるかも知れない危険にさらすなんて愚かなことだと思わないかい? よしんば、そんな試験にびくともしなかったところで、彼女に対する評価が今より上がるわけでもないし、万が一、あやまって屈してしまったとしたら、彼女を失った君がどういうことになるか、また、君自身が彼女の破滅と自分の破滅の種をまいたことを思って、どれほど深刻に自責の念にかられ、後悔することになるか、この場でとくと考えてみるがいい。」

この数倍の長さの台詞でロターリオは熱意を込めてアンセルモを説得する。この前後でアンセルモもかなりの長尺で言葉を尽くしてロターリオに妻を口説くよう頼み込むのだが、その内容はアンセルモの友情に感激したことなど、ポジティブな意味合いで占められている。

このようにして作品は読者に対して、「絶対に誘惑なんて上手く行くわけがない」という意味内容を、楽しく雄弁な調子で――セルバンテスによれば優れた「語り口」によって――何度も与えてゆく。執拗に前へ前へと読者に突きつけていく。すると読者の心のうちには次第に「ひょっとすると、誘惑が上手く行くのではないか」という疑問が生じてくるのである。つまり、与えたものと反対のものが現れることになる。

まさにこの事は前項で述べた村上春樹のメソッドと対極をなしている。セルバンテスは楽しく豊かな文体によって読者を上手く一つの流れに乗せるのだが、それを執拗に繰り返すことによって、結果として読者の心を反対の方向にむけている。いわば分裂させる。『1Q84』の方法論も表面的な所だけに注目すれば「繰り返し」が鍵になっており、その点は同じなのだが、『1Q84』の方では心が分裂してしまっているのはあくまでも「前提」である。それは事実として、最初から与えられている。むしろ問題になっているのはいかにそれを統合していくかなのだ。そしてそれは、前項の繰り返しの技法によって解決の糸口が与えられることになる。

以上の議論は、実に興味深い。ある一点においては同じことをしているにも関わらず反対の結果が得られるというのは、不思議なことだ。下手をすれば、村上の文章はこの項で述べたセルバンテスの手法へと落ちこんでしまうだろう。しかしそこはさすがに熟練の腕というものがあり、彼がそのような陥穽にはまることはないようだ。

『城』の「クラム」

なお「ヤナーチェック」・「シンフォニエッタ」はカフカの『城』における「クラム」と対応しているように、私には思われる。『城』では誰もが呆れるほど繰り返し「クラム」という名を連呼する。どのページを開いてもクラム、クラム、クラムと言っていいぐらいだ。その意味は単なる人物名から逸脱していき、しだいに主人公と婚約者に反対し支配する、あらゆるものの総合のように思われてくる。不気味な霊なようなものとして立ち上がってくるのだ。

対して「ヤナーチェック」はどこかお守りのように機能する。青豆とタクシーの運転手が別れる際に、その名を確認し合うのは印象的だ。

 中間を語る

最後に「中間を好んで語る」ということについて言及しておきたい。このことは村上春樹のファンならば誰しも気付いているのではないかと思われるほどに、彼の小説の明確な特徴になっている。

例えばBook1の前篇の第十章で、天吾は戎野先生に会いに行く。そこで小説は、天吾の道程を詳細に語っていく。電車の乗り換えや風景の変化、タクシーの運転の様子、そして戎野先生を待つ部屋などについて描写がなされる。つまり「戎野先生に会う」という結果に対して、その前、中間の部分が語られている、というのがこの文章の眼目なのだ。同様に第七章では、青豆が温室の中の老婦人と会うにあたって、タマルの動作が語られている。温室の外と中を行き来するときに彼は扉を開け閉めするのだが、その際の手順というものを意識したように、意図的に読点によって文章が区切られている。彼はしかるべき手順を踏むことによって結果に至る男なのだ。サンドイッチを作るのも上手い。それはどこかフィリップ・マーロウがコーヒーを淹れることと似ている。

分裂したものを統合する、つまり距離の開いてしまった二者を統合するということについて考えると、このような「中間」を重視する姿勢が必要になってくるのだと思われる。

 まとめ

この記事では『1Q84』に登場する二度の繰り返しという表現に注目して、その背景の説明を試みた。またその背景は、冒頭の「ヤナーチェック」の繰り返しが持っている背景と密接な関係があると述べた。そしてその表現形式は、セルバンテスの手法と興味深い対照をなしていることを指摘した。

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『1Q84』の隠喩表現に関する補足

今までこのブログは二回に渡って『1Q84』の解説をおこなってきた。

本稿ではこれまで議論してきた『1Q84』の隠喩表現について整理をおこない、また補完をおこなう。その性質は次のように一覧できる。

  • 容器、すなわち壁が存在し、その内側と外側という空間構造が立ち現れる。
  • 現在は中身が未熟であるが、育てることによって成長し、いずれは外へと出ていく。それには時間が必要とされる。
  • 上記の要項を満たす、促進するものが善である。
    • 邪悪な者の侵入を拒む。
    • 適切な滋養を外側から取り込んで内側へ送る
    • 質問をおこない、考えることを促す。
    • 正しい生活。自己を律する。
    • 必要なら守護者の助けを借りるが、適切なタイミングで守護者との縁を切り、外へ出ていく。
  • その反対が悪とみなされる。
  • 暗黙のうちに倫理的な評価がおこなわれる。

 伸縮自在の道具

改めて振り返ると、この表現形式が非常に強力であることに気付かされる。というのも空間と時間が含まれているため、作家はあらゆる運動や現実の構造物を対象にしてこの隠喩表現を行使できるからだ。紅茶を入れるためにお湯を入れた後しばらく待つというだけの動作や、赤いスズキ・アルトに乗った女の子が車の外へ出たいと言って母親を困らせる場面や、あるいは老婦人が温室で蝶を育てる場面、そして青豆が避難先のマンションの一室で外へ出るタイミングを待ち続けるといった複数章にまたがる文章でさえ、実はこの型で表現されている。

さらに言えば、作品冒頭で青豆が一人でタクシーを降りたことと、最後に天吾と共にタクシーに乗り込んだことも、やはり型に沿っていることが分かる。彼女はある容器から別の容器へと、すなわちより望ましい部屋へと移ったのである。したがってこの表現形式は数行程度の文章から、作品全体にまたがる長さの文章にも適用可能であると分かる。

 倫理的評価がなす効果

倫理的な評価をおこなっていることもポイントの一つだ。すると意味内容の「反転」が可能になるので、比喩の適用範囲が増す。どういうことかと言うと、本来悪であるはずの内容でさえ倫理的な評価によって「悪」と弾劾されるため、その批判的な姿勢そのものは「善」となり、結局すべての隠喩表現が同じ方向性を指し示すことになる。その結果全体としては矛盾が起きない、ということだ。

これにより作家が描くことのできる対象は広くなる。金魚と金魚鉢を買わずにゴムの木の植木鉢を買うのは善だが、幼い女の子に纏足をはめるのは悪である。しかし文面においては、後者は単に纏足の説明をするだけで事足りる。なぜなら倫理的な評価が行われているので、文面上で纏足をはめた女の子を解放するようなことを表現したり、あるいは女の子に自由を与えるようなことは書かなくてもよいことになるからだ。この道徳性の批判という機能によって、作家は首を右へ向けることも左へ向けることも可能になる。前項と加えて、さらに自由度が増すのだ。

 省略がなす効果

前述の評価は暗黙のうちにおこなわれている。つまり善か悪かという判断の結果が文面には表れていないということだ。このような省略によって引き起こされる効果は大きい。

まず、文章のリズムが良くなる。音楽の演奏は途切れることなく続けられなければならない。いちいち立ち止まって今の演奏はこういうことなんです、と指揮者が聴衆に説明していたら、しらけてしまう。あえて評価を省くことによって、作家は事実だけを続けて書くことが可能になる。それにより物語は立ち止まらずに進行していくだろう。

もうひとつは、読者の参加が求められるということだ。それはハードルでもあり、自由なスペースでもあると言えよう。イエスが自分の喩え話が分かる人と分からない人を区別したように、『1Q84』もまた隠喩が理解できる者とそうでない者を区別する。読者はそのハードルを乗り越えることによって、達成感が得られる。『1Q84』は再読することによって理解が進み、それにつれて喜びが深まる小説なのだ。また自由なスペースというのは、つまり読者が物を考えたり感じたりすることを許す、奨励するということだ。

このハードルというものを象徴している場面がある。青豆が『空気さなぎ』を読む箇所だ。

それは青豆にとっては、人の生死を賭けたきわめて実際的な物語なのだ。マニュアル・ブックなのだ。彼女はそこから必要な知識とノウハウを得なくてはならない。彼女が紛れ込んでしまった世界の意味を少しでも詳しく、具体的に読み取らなくてはならない。

村上春樹著『1Q84』)

あとに青豆が高速道路の非常階段を逆向きに上がっていくことを思いつく場面があるが、そこには発想の理由が書かれていない。これもまた一種の「省略」である。じつは彼女は『空気さなぎ』を読むことによってそのようなアイデアを思いついたのだ。

また最後にタクシーの運転手が語った挿話は作品全体の要約になっているのだが、そのことの説明はなされない。青豆が即座に「信じられる」と返したのは、ルールを学び把握していたからだ。無論そのことの説明も省かれている。

 まとめ

1Q84』固有の隠喩はあらゆるところに顔を出し、以上の機能によって読者に効果を及ぼす。読者自身の眠った意欲へと働きかけるのである。それは必ずしも良いこととは言い切れず、危険なことでもあるから、ハードルが設定されているのかもしれない。

 発想のみなもとは何か

この隠喩は村上春樹のオリジナルな表現技法だ。今まで作家が読んできた、そして書いてきたすべてが混ざり合った混沌とした思考の海から奇跡的に誕生したものであって、何か一つに元ネタを絞るのは難しいだろう。

しかしそれでも敢えて一つ挙げるとするならば、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッバイ』がそれに当たると思われる。次の記事でも解説したように、同小説の主人公はさまざまなものに評価を下している。

riktoh.hatenablog.com

また、この小説では次のような型を持った文章や挿話が随所に姿を見せる。それも様々な長さで表現されている。

  • 二人一組である。
  • ペアの内一方が一方を守る役割を担っている。
  • 守護者は自らを犠牲にして、その役割を達成する。

親鳥が子供を庇護する場面がある。人間が姿を見せているので、親鳥は危険だからと、子供の鳥に注意をおこなって鳴くのを止めさせる。このような短いシーケンスの中にも、上記の型は表れている。もう少し長いエピソードの例としては、三人の医者を順に訪ねていく場面が挙げられる。そこでは一部の医者が悪と弾劾されている。より長い主要なエピソードとしては、作家であるロジャーが妻のために秘密を隠したまま苦しむことや、マーロウが友人であるテリー・レノックスをかばって牢に入ったことなどが挙げられる。最後にレノックスとマーロウが袂を分かつのは、結局レノックスは自己犠牲を完遂することができなかったからである。むしろ庇ったはずの相手は最後に死んでしまった。そのようなことをマーロウの道徳は許容できない。彼の倫理観は厳しいのだ。

さらにもう一点根拠を提出するならば、このような倫理的な結論の導出をチャンドラーは「漸進的」に行っているということだ。闇である地形の中を一歩ずつ確かめながら前へと進み、時には横道や行き止まりに入りつつ、マッピングを行う。そうして最後には目的地にたどり着く。このような足取りも『1Q84』の隠喩の性格と共通しているように思われる。